Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

世の中では、辛く苦しい現実にある人がいるというのに、それでも全ては許せるのだろうか?

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世の中では、辛く苦しい現実にある人がいるというのに、
それでも全ては許せるのだろうか?

そんなことが許されるような。
そんな薄情な人間になるくらいなら、悟りなんかいらないんじゃないだろうか?

そういった意見が出てくる事ってありますよね?

こういう意見もよくある誤解から出てくるんですよね。
まず、そういう人になるということはありません。
何かしらの特別な人になるということでも無いんです。
そもそも誰かが悟るということ自体が幻想ですしね。
そういった事について今日は書いてみようかなぁって思います。

こういった考え方。
この根底には、悟る誰かがいる。
悟ると、心が変わる。

みたいな大きな誤解があるんです。

そしてなぜそのような誤解におちいるのかというと、
その根底には、心に支配された自分がいると感じているからなんです。

そして、その見せかけの感覚があるので、
心に支配され無いようにしよう、その為に心をコントロールしたいと願うわけです。
でも、それはどうやってもうまくいきません。

そこで、混乱が起こるわけです。

 

混乱の原因は、心は自分が行っている、もしくは自分が持っているという概念なんです。

概念というのは、夢想のようなものです。
物語のようなもので実在はしないんですよね。

心がないというのではなく、
心を所有している、もしくは心に所有されている「自分」というものが無いんです。

そして、心はただ、自然発生的に起こっているんです。
だから、心をどうにかしようとするってな話ではないんです。

この心っていうのは、実際問題、何なのでしょうか?

みんな、普段当たり前のように、心って言葉を使っていますが、その心ってのは何を指しているんでしょう?
感情のようにも感じるし、信念みたいな使われ方もしますよね。
心を配るというと、思いやりみたいなものにも感じます。
でも、どうやっても心という本体は見つかりません
心ってのは便利な言葉ですが、実際問題、心ってのも、実は無いんです。

でも僕らは何かと心をコントロールしようとしてしまうんです。
でも、無いものはコントロールできないんです。

そもそも、コントロールする誰かも存在していないんです。

この心、つまりマインドというものは、自分という概念と思考、感情が絡まりあった総称みたいなものなんですね。

さて、
すべてがオッケーなのと
すべてを心がオッケーとするのとは違います。

だから、許すとか、オッケーなんだと心に納得させるということでは無いんです。

ただ、自我という分離のエネルギーは、そのエネルギーを保つために、様々な分離のエピソードを作り続けます。

そして、その物語と同一化されちゃうんですね。そこで、様々な意味という物語が作られ続けるんです。

心は心として、仕事をしています。
そこにわざわざ自分という行為者を付け加えなくて良いんです。

心と自分が同一化するから、
何者かになりたい。何者かになろうという物語が出来上がっちゃうんですね。

そしてその物語に行き詰まってしまうんです。

さて、話がとっちらかってきたので、戻しますね!

世の中では、辛く苦しい現実にある人がいるというのに、それでも全ては許せるのでしょうか?
心を失って、なんでもオッケーなんて思える。
そんな薄情な人間になるくらいなら、悟りなんかいら無いんではないか?

これは心が自分の所有物であるというところから出てくる物語であり、誤解なわけです。

心は心としての仕事をしています。
それは消えません。そしてそれをコントロールする誰かもいません。
心が許せ無いことがあるのなら、それが起こっているわけです。
それは、そのままにしておいてあげれば良いんです。
それが、ただ、起こっているわけです。

そして実は認識された時だけ起こってますが、同時になにも起こって無いんです。
起こってると起こって無いは同じことなんですが
この辺りのことはまたの機会に書きたいと思います。

最後まで読んでいただいて、ありがとうございます!

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