悟るという言葉に根本的な誤解があります。
誰かが悟るということではないんですよね。
悟りは誰かに何かが訪れることではないんです。
思考や感情や感覚が「自分」に起こっているという誤解が落ちるんです。
自分という概念だけが落ちます。
なので、悟る誰かがいるんじゃないんです。
「自分」だけが落ちる
そもそも、自分という概念は後付けの概念なんです。
自分が落ちると言うと、
もしかしたら、 感情や感覚や思考のない、無機質なロボットみたいな人間になるのではないか?
といったような思いを持つかもしれません。
でも、そうではなく、
感情や感覚や思考から、さらに「自分」という概念を付け加えるというクセを見破るみたいな感じです。
誰かが何かを得るという思考自体が悟りから離れる行為となっている
さて、誰かが何かを得るという考えが、「自分」がいるという概念によって引き起こされます。
その大きな誤解こそが、
本来の地平線である「それ」を見失う原因ともなっているんです。
そして自分がいるからこそ、
瞑想から何かを得ようとしたり、
伝授を受けたら何かが変わると思ったり、
スピリチュアルなワークに参加したら何かが落とせると思ったり、
と次々に行為を追い求めてしまうんですね。
また厄介なことに、
「自分」というのはいないし、何かを行為している誰かもいない。
すべてはありのままに起こっている。
というメッセージに対しても、 そのメッセージに「自分」が解釈を加えて、
ありのままに起こっているのだから全部OKなんだ!
という新たな概念を生み出したり、
何にもすることはない。
できないんだ。
という概念を生み出したりしてしまいます
「うふふ♪きゃはは♪すべてはOKなのよー。」
といったような感覚に酔うのも、
「どうせ運命は決まっているだ。何もできないんだ。」
と悲嘆に暮れるのも、
いずれも「自分」がいるという概念の上で起こってるんです。
いわゆる悟り系とか非二元系のメッセージを自分という概念を通して聞くと、
その聞いたこと自体が概念化されちゃうんですね。
なので、「自分」には本当のところは聞かれないんです。