分からなきゃならない意味を持っているものは、何ひとつないんですよね。
わからないままなのがそれ、全てであり、
全てであるから何の理由付けも必要ないんです。
わかんなきゃならないと思いがなにかしらの答えを採用しようとするんですね。
何かしらの答えを求めるということは、
答えじゃないものも同時につくりだしてしまうんです。
それが分離を生み出してるんですね。
でも、実際に分離うまれているのではなく、
概念上で分離があるように見えているだけなんです。
オママゴトのルールと同じですね。
それが、
例えば、
悟りとは、あらゆる不安や怒りなどの感情から解放されたことなのだ! みたいなね。
逆もあります。
不安や怒りがあってもいいんだ!
ありのままが悟りなんだから、全てオッケーなんだ! ってね。
これらの言葉を概念として受け入れたところで、何にもなりません。
覚者さんたちが言ってるのは思い込みの破壊なんですね。
自我ちゃんは、どうしても何かの方向づけを求めます。
その自我ちゃんをどうにかしようとすることは出来ないんです。
なぜなら、どうにかしようとする衝動が自我ちゃんそのものだからなんです。
じゃあ、受け入れるのか?
というとそれも行為になっちゃうんです。
つまりせいぜいゆっくりと観察するくらいしか無いんです。
そうすると、
厄介なことに 全てを観察している観察者としての存在があるんだ!
みたいな概念も飛び出しちゃうんですね。
いいですか?観察者としての存在ってのも概念ですからね!
なんかそんな誤解も多い気がします。
ま、自我ちゃんはそうやってひっきりなしに概念を引っ張り出します。
引っ張り出してくるその奥には、その衝動があるからです。
その辺のカラクリを解き明かそうとせず
わっかんなーい!
ってなもんでわかんないまま、
わかんないに落ち着いていたらいいんじゃ無いかなーって思います。
何でも無い中で、なんでも無いものが、なんでも無いことをしてるんです。