Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

思いはあるもの??

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はじめに

ほーい。
おはようございます。
タクさんです。

僕らが、これってあるよね。
って思っているもの。

例えば、山がある。川がある。
ここに手があって、手でスマホを握っている。

そして、そういうことを私は思うことができる。
思うことができるからこそ、私は存在する。

ここまでは、反論の余地がないように、
普通は感じると思います。

逆に全てを疑ってみるということにしましょう。

山はもしかしたらないのかもしれない。
川ももしかしたら、ないのかもしれない。
スマホもないかもしれないし、手だってないかもしれないし、そもそも身体だって疑わしい。

ただ、全てを疑わしい!としているこの私の自意識はある。
ここだけは疑いようがない。

つまり、
我思う、故に我あり。

ってねー。
そうなりますので、どー考えても、絶対に「私」だけはある。

っていうのが、いわゆる哲学の大前提となっている訳です。

だから、まーほとんどの人は、私というものは疑いなく存在している!
ということに、反論の余地はない!
って思っているわけなんですね。

 

思いはあるもの?

この私という自意識がある限り、どう考えても、私がいる。
ということを疑うことはできません。
だから、どう考えても「私は存在している」ということになるんですけどねー。
そして、「私」がいるのだから、当然「私」以外も存在する。
ということになるわけです。

ここが、「私はいない」という言葉にみなさんが混乱する大きな根拠の一つになってると思うんですよね。

もちろん、これはその通りです。
ですが、あくまでも「思い」の中ではその通りということなんですけどね。

つまり、この「私は存在している」というのは、あくまでも「思い」の中でしか成り立たない観念なんです。

そして、この「思い」というものは、あるものなのか?
ほんとーにあるものなのか?

って考えるとねー。
実はそうじゃないんですよね。

思いがあるものなら、
「ちょっとそこの棚から、思いを持ってきて!」
ってな感じで持ってこれるはずなんですがね。

それはできないんです。
だって、思いってものじゃないですもんね。

思いはストーリーである

では、思いとは何か?というと、それってストーリーなんです。
ストーリーとは、お話です。

そして、お話であるストーリーは、ずっと続いてないと無くなってしまいます。

ドラゴンボールというお話も散々長い間続きましたが、ついに終わりました。
終わってしまったお話は、それをまた再生させない限り無くなってしまいます。

映画もドラマも、それをやっている間だけ、それがあるように感じられるものです。
それがストーリーなんです。

つまり、思いとは「ある」ものではなく、「起こっていること」なんです。
いわゆる「働き」のようなものですね。

風のようなものなんです。

思いで掴んだ世界観

そして、僕らはあらゆる世界観をこの思いで掴んでおります。
だから、この思いが変わると、世界観も変わってしまう訳ですねー。

ただ、思いは真実だと信じられない限り、リアルとして掴めません。

だから、思いを掴む場合、僕らはそれが真実なのか?嘘なのか?ということに、
結構強いこだわりを持っているんですよね。

なので、何が本当で何が嘘なのか?ということに敏感です。

「この世は幻想のストーリーです。」

なーんて言われたら、ピクッ!ときてしまうのも、このせいなんです。

だから、この世が幻想なんだったら、真実はどこなの!!!
ってなる訳ですが、そもそも真実も嘘もないんですよね。

僕らが思いを真実だと認定する際の根拠って、色々あるんですが、
その根拠の大きなものの一つは、実は単なる多数決なんです。

あの人もこの人もこう言っている。つまり、こう思っている。
だから、真実だ!

みたいなね。
そんな脆弱なものが真実の根拠になっていたりもするんですよねー。

だから、正義はコロコロと変わり続けていたし、
神が存在していた時代もあったわけです。

聖書が真実だった時代から、科学に取って代わられたのもそのせいなんです。

ま、そうやって思いによる真実というものってコロコロと変わっちゃうんですよねー。
なぜなら、思いというものはあるものではなく、起こっているものであり、

この起こっているものとはストーリーであり、
そして、ストーリーとは、こういうことにしておこうねーという、ある種のルールが大前提になっているからなんです。

そして、大前提の元にもさらに大前提があり、さらにその足元にも大前提がある訳なんですが、これらの底にあるもの。

それが、「私」という観念であり、そして、この観念は「分離」の観念とセットとなって働いているんです。

 

takuteto.hatenablog.com

 

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