Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

生きると共に在ってみる

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はじめに

はーい。
どうもおはようございます。
タクさんです。

ちょっと前のニンテンドーのDSでは、
裸眼の3D機能がついておりまして、
うおーっ!って興奮したもんですが、
あれ以降、3Dのゲームってあまり盛り上がらなくなっちゃいましたね。

まー、DSの3Dは飛び出てくるタイプじゃなく、奥行きが出るタイプのものでしたので、迫力にはかけるんですがねー。

実は、裸眼でみれる飛び出るタイプの3D映像も技術的には可能らしく、
ちょくちょくとディスプレイも開発されておりますが、
あれを長時間みてるとものすごーく疲れるらしいんですよね。

なので、3Dの映画でも、飛び出るタイプをあまり多用していない。
ということを聞いたことがあります。

飛び出るタイプの映像はやっぱりちょっと負担が大きいのだそうです。

だから、短い時間のアトラクションなんかではいいのですが、映画やゲームのような長丁場のものですと、ちょっと良くないらしいんですよねー。

これって、僕らが抱えてる不安や恐怖も同じなのかもしれませんね。
不安や恐怖って、ただそうみているだけのものなんですが、
あまりに長時間、そればっかりみていると負担も大きくなっちゃいますもんね。

そんな時は、みるのをやめて、一休みしなきゃですよね。

きにしない、きにしない。
一休み、一休み。

ということでねー。

 

そう見えている

赤いサングラスをかけていると、目の前の世界は真っ赤に見えますよね。
黄色のサングラスをかけていると、黄色く見えます。

これは、赤や黄色い景色が起こっているということではなく、
そう見えているだけなんですね。

あらゆることはただ起こっているだけ〜。
みたいなことを言ったりしますが、この起こっていることというのは、
見えていることではありません。

見えていることは、そう見えているだけなんですよね。

僕らはなにかを見るからには色付けをします。

この色付けで僕らは変化を感じ、分離を感じているわけですが、
あれがこのように変わったといったような変化や、
「あなたと私」といったような分離は、
まさにそう見えているだけなんです。

見えていることに問題はない

赤いサングラスを通して見た世界が真っ赤だったとしても、
その赤さには問題はありませんよね。

だって、それはそう見えているだけですからねー。
同様に、僕らもまた世界を色付けしてみているわけですが、
この色に問題はないんです。

ただ僕らはこの色付けをする際に、
「正しいと間違い」という概念を作り、そして比較の概念を付け加えます。

だから、色付けられた世界の中で、問題というものも登場してくるわけです。

そして、その問題に対処できない時に
「どうしよーーー!」
ってなるわけですね。

どうにもしようがないから、どうしよー!ってなってるわけですので、
それはもう、妥当な反応なんですよね。
だから、それで問題ないわけなんですが、
あまりにも、不安が強くしんどいのなら、一度、みるのをやめてみればいいということになるんです。

怖い小説を読んで、怖くてどうしようもない!というのであれば、
ちょっと小説を閉じて、休憩してみればいいわけですからねー。
それと一緒なんです。

ただ在ってみる

みるのをやめる。
これが、ただ在ってみるということです。

僕らにできることはありませんが、そもそも何かをやっている者がいないからです。

できることがないと聞くと、自分がまるで力のない小さな存在のように感じてしまうかもしれませんが、そういうことではありません。

あなたは分離した個人では無く全体の存在そのものなんです。
みようとしなければ、その全ての存在が残ります。

この存在は、モノでもなけりゃ対象でもありません。

私は在る。在るから全てを感じていられるわけですし、在るからこそ「それ」を分離してみることもできているわけです。

この在るの力は無限です。そもそも限界というものもまた分離からくる一つの概念に過ぎないんです。

みるのをやめるとは、なにかをそう「みなす」ことを休憩してみるということです。
そして、みなさずにただ在ってみることで、その存在のダイレクトさと一緒になれるんです。

この存在はまさに、生きる!そのものなんです。

 

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