Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

気づきに主体はない

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はじめに

はーい。
どうもおはようございます。
タクさんです。

あ、梅の香りがする!
ってなことでね。

お花の香りに気づくことってありますよねー。

ちなみに、僕は耳はよく聞こえる自信があるのですが、
匂いについては、鼻詰まり傾向にあるので、ちょっと自信がないんですけどね。

で、この匂い。

これってね。
気づこうとして気づくものじゃなくてですねー。
向こうから匂いはやってきているわけです。

もちろん、匂いなんかにかまってられるかー!
てなことで、
ふんっふんっ!と興奮してなにやらゲームに夢中になっていたなら、
匂いは感じられないかもしれませんが、

その時、
「梅の香りがするよ!」
って言われると、

「あ!本当だ!確かにいい香りがする!」
って気づいたりもします。

この時って、一見、自分が気づこうとしたうえで、気づいているように感じるかもしれませんが、
それは、気づこうと、何かをしたのでは無く、
ただ、ゲームの興奮を、置いておいただけなんです。

すると、意識の集中が解けて、今までここにあった「梅の香り」が表れてくる。
ということなんですよねー。

そう。
おいておくと、ここに最初からあることがあらわになってくるんです。

 

気づこうとして気づくことってないんですよね。

まー、僕も、「気づき」しかないんです。
みたいなね。
そんな表現を使ってたりもするわけですが、
これは、誰かが何かに気づく。
ということではないんですねー。

そもそも、気づきって、誰かがやっていることではないんです。

だから、気づきましょう!という表現ではなく、「気づき」がある。
っていう表現になってるんですけどね。

まー、言葉にすると、この辺りは誤解も含まれてしまうこともあります。

主体と客体

そもそも、言葉というものは主語と述語の組み合わせでできております。
つまり、言葉で表現されたものはすべて、主体と客体があるんですね。

僕らは、言葉を通して、目の前の世界を翻訳しておるわけですが、
この翻訳された世界は、実際の目の前の世界とは別物になっているんです。

なんていうか、日本語の俳句のニュアンスを英語に完全に訳すのって無理じゃないですか。

それと似ているんですが、言葉による世界の翻訳はもっと大きな違いを作ってしまっていたりするんですよねー。

そして僕らは、この世界を掴み取るのに、この言葉による方法でしか掴み取れないんです。
ただ、この掴み取りを始める前から、目の前の世界を感じてはいたんです。

赤ん坊の時とかね。

気づきに主体はないし、対象がそもそもない

僕らは気づいているからこそ、そこに言葉を当てはめることができます。
この世には、分離は存在しておりませんが、気づいているからこそそれを分離し、分けることができているわけです。
ただ、面白いことに、実際にハサミでチョキチョキと切り分けて分離させているわけではありません。
ぜーんぶ、その「てい」にしているだけなんですねー。

つまり無いものをあるにしているだけなのでね。
無理に何かを手放すということでもないんですよね。
そもそも、手にしておりませんのでね。

気づきも、誰かが気づいているわけでは無く、その気づきはすでにここにあるもんなんです。
そして、気づきに対象があるわけでも無く、対象と気づきは同じものなんです。

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