Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

「ねばならない」ことはない

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はじめに

ほーい。
どうもおはよーございます。
タクさんです。

みなさん元気ですかー?
子供は風の子元気な子!!
ってねー。

ま、そうは言っても、子供の頃って寒かったですよね。
最近の子供も、鼻水たらしてるんでしょうかねー?
あんまりみない気がしますが、
僕が子供の頃は、鼻水だらだらでしたし、
冬なんかは、手の指が全部しもやけで赤く腫れ上がってたような気がします。

痛かゆーいので、お風呂でモミモミしておりました。

まー、いまほどエアコンというものも完備されておりませんでしたからねー。
そういえば、エアコンについてるリボンのようなものもいつの間にかなくなりましたね。

この冬は日本はそうでもないですが、世界では大寒波が訪れていたそうです。
そのせいで、日本でも一部の電気料金が値上がりしておりましたもんねー。

ただ、日本では温暖化については、世界中で猛暑になっておりますー!
みたいな感じでガンガン報道するくせに、寒波についてはあまり報道しないっぽいですね。
なんでだろ?

 

僕らを苦しめる「ねばならない」

僕らが苦しむ原因のねー。
最も奥にあるその種は、「ねばならない」という思いです。

こうであらねばならない。

っていう思いです。

これが、僕らを苦しめるんですねー。

ねばならないとは、こうあって当然という思いです。

そして、その当然のことができない場合に、
自分への無力感を感じたりするわけですねー。

この「ねばならない」のハードルが高ければ高いほど、
そのハードルに引っかかってしまう可能性もアップするわけです。

他人に課している「ねばならない」もまた、同時に自分にも向いております。
だから、他人に厳しい人ほど、その心の奥深くでは自分への無力感を感じていたりもするんですよね。
ただ、その無力感は普段はあまり見えておりません。
自分こそ素晴らしい!という強力なヴェールで、自分の弱さは隠されております。

このヴェールが分厚ければ分厚いほど、弱い自分は許せないことになっております。
そして、その弱い自分を他人を通して、その投影を観ることになっちゃったりもするわけです。

「ねばならない」ことはない

そもそも、この「ねばならない」というのは、絶対的に決まっていることではありません。
そういうことにしていることなんです。

まー、ゲームでいうところの「しばり」プレイのようなもので、
思考で作られるストーリーの中に「しばり」を入れているだけなんですねー。

だから、実体として存在しているものではないんです。

とはいえねー。思考のストーリー作りには人それぞれのクセがありますし、
このクセというものは、なかなか強固ですからねー。

この「しばり」を無しにしよーとしても、中にはなかなか外れない「しばり」もあるんです。

ただね。ゲームと違うところは、この「しばり」がクリアできなかっとしても、
即座にゲームオーバーとか、やり直し!とはならないんですね。

つまり「しばり」をクリアしようが、できなかろうが、淡々とゲームは進んでいくわけです。

その淡々と続くゲームの中で、
「おわったー!ゲームオーバーだー!」って言ってるだけで、そう言っている間もゲームは淡々と続いているんですよね。

「しばり」というのはある種の「呪い」のようなものでもあります。
ですが「呪い」というものは、実際に僕らを縛り付ける力は持っていません。
だから、なんとか演出でごまかそうとしているんです。

「ねばならない」があってもいいじゃん

ま、そんな話を聞きますとねー。

まだ、私の中には「ねばならない」が残っている!
なんて感じるかもしれません。

でも、変な話
「ねばならない」は全て取り除か「ねばならない」
というわけでもございません。

もちろん、
真実の私として生きねばならない!
目覚めた私であらねばならない!
わけでもありません。

楽しければ、そういう「しばり」をつけてプレイしてみるのもいいですけどね。
あらゆる「しばり」は、その「しばり」がある限り、うまくいかないことも当然起こるわけです。

そんな時には、
へー。
私はそういう「しばり」をつけていたんだー。

ってね。
それを知るだけでいいんですよね。

そして、その「しばり」をクリアしてもしなくても、
それはどっちでもいいんです。

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