Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

エゴのワナとマインドフルネス

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はじめに

はーい。
おはようございます。
タクさんです。

みなさん。
ボルダリングをやったことはありますか?

あれってねー。
確かにプロの人がやってるようなコースはものすごーく難しいコースだと思うんですけどね。
初心者コースは、なんていうか、梯子を登ってるような感覚で、
結構、おっさんでもできちゃうんですよね。

だから、調子に乗ってやっちゃうんですけど、
慣れてないと、その後の筋肉痛がえらいことになります。

でも、遊び感覚で良い運動になる!という意味では、
結構、素敵なスポーツだなーって思います。

うちの壁にも、つけてやろうかな。

あのカラフルな引っ掛けるやつ。

というわけで、今日は、引っ掛けるやつ。何かを掴み取るための引っ掛かりをテーマにお話ししていこうと思います。

 

引っ掛かりがないと前に進めない

さて、
ボルダリングは、手が引っかかるところがあって初めて登れるわけですから、
この引っ掛かりがないと始まりません。
何て呼ぶのか知りませんので、ここは引っ掛かりと呼ばせていただきます。
(※調べろよ!)

これってねー。
なんか思考のストーリーにも似ているところがあって、
思考のストーリーを進めるにも、なにかしらの引っ掛かり、がないと進めないんですよね。

どこを掴めば良いのか?この引っ掛かりがあって、初めて思考のストーリーは進むわけです。

だから、この引っ掛かりがどこにあるのか?どの引っ掛かりを掴めば良いのか?
なーんてことを僕らは知りたがるわけなんです。

それが、
「これってこういうこと?だからこうなるの?」
という問いなんですねー。

シンプルすぎるお話。

ちなみに、このいわゆる悟りのお話はとってもシンプルなお話です。
悟った人もいなければ、悟りという何かを得るとか、達成するというお話ではありません。
そもそも、この世の全てはシンプルであり、思考の中だけで複雑化させているだけなんです。
この複雑化が引っ掛かりによってストーリーの坂を登っていくということであり、高みに行けば何かが得られるという錯覚なんです。

実際にこの引っ掛かりは実在しておりません。
思考の中だけにあるイメージに過ぎないものなんです。

この一切の引っ掛かりがないから、この世はとってもシンプルなんですが、
このシンプルさは思考では理解し得ないことでもあるわけです。

なぜなら、シンプル過ぎて、この引っ掛かりが一切ないからなんです。

引っ掛かりを探そうとすること。これが執着です。

何かしらの引っ掛かりを掴み取ろうとする衝動。これが執着です。
この執着があるから僕らはなにかしらの引っ掛かりを探そうとするんです。
そして、この引っ掛かりを求める心が欲なんです。
この心は、引っ掛かりを掴み取り高みに行きたいんです。

そして、この欲と執着による働きがいわゆる「エゴ」なんですねー。

これは、これで自然な一つの働きなんです。
エゴがあるから、良いとか悪いという話ではありません。

エゴのワナ

実際にこの引っ掛かりがあるわけではありません。
だから、僕らが掴んでいる思い込みはすべて砂上の楼閣であり、
夢のようなものなんです。
実際の真実は究極のシンプルなんです。
でも、エゴちゃんにとってはこのシンプルさは退屈すぎるんですよね。
なぜなら、引っ掛かりがなければストーリーが進まないからです。

なので、どんなことでも引っ掛かりに変換しようとするんです。
この、どんなことでも変換しようとする働き。
これがエゴのワナであり、変換された引っ掛かりを掴み、ストーリーを進めてしまっている間は、このエゴのワナに見事に引っかかっているというわけなんです。

マインドフルネス

なーんの引っ掛かりにも手をかけず、ただ在ってみる。
これがマインドフルネスです。
瞑想も一緒です。
思考のストーリーを進めている間は、膨大なエネルギーを消費しています。
そして、あらゆるストレスの種もまた、このストーリーの中にあるんです。

ただ在ってみると、この働きから解放されます。

そして、ストーリーをちゃんとストーリーとして見抜かれる時、僕らはストーリーの夢から覚めるんです。

ややこしいのは、実際には誰かが何かから目覚めるというわけではない。
ということですね。

この、誰かが何かをする。というのもまた、ストーリーの中だけの立て付けですからねー。

 

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