Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

思考のウロコがはがれると、ありのままがよみがえる

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はじめに

ほーい。
おはようございます。
タクさんです。

みなさん。
今日も素敵に生きてらっしゃるでしょうか?

まーねー。生きることって、することじゃないんですよね。
生きてるという土壌の上でぼくらは何かをしているわけですもんねー。

生きるを僕らはなんらコントロールしているわけではありません。
生きるがあるから「私とあなた」という思いを描けるわけですから。

つまり、生きているならもうそれ以上のことはないんです。
その上で、好きなことを愛でて、やりたいことをやれば良いんですよね。

でね。
そういうことを言うと、
「やりたいことがない」
というお話しも聞いたりします。

やりたいことがないということが、ダメなこと。
価値を生み出していない。
といったようなね。

そんな思いから、「どうやってやりたいことを見つければ良いんでしょうか?」
なんてことも聞かれるんですけどね。

そんなのは、ないならないで良いんですよね。
食べたくなったらお腹が減りますし、減ったなら、食べたいものが見つかるもんです。
やりたいことだって、それと一緒ですからね。

ないなら、何もしなきゃ良いわけでして、何もしてないことが別に価値がないと言うことでもないんです。

 

分離の概念は破綻している

何かと何かを分離させているのは思考の中だけ考え方です。
そもそも分離を突き詰めると、体の中にいる細菌は自分とは別なのか?
体が自分なのだとしたら、一つの細胞もまた自分なのか?
その細胞を誰が生かしているのか?

ってねぇ。
突き詰めれば突き詰めるほどに論理は破綻してくるんですよね。

そもそも、分離ということは存在していないから、そりゃー破綻するのは当然なんです。

あらゆること全てに分離はないんです。

生きるは価値で測れない

ですが、思考は分離をしないと働かないものですからね。
あらゆるものを分けては、それを比較するわけです。
そして、比較をする上で、価値という概念が生じるわけです。

ですが、生きることにその価値を当てはめるのって、無意味なんですよね。
そもそも、生きるがある上で、価値という概念を遊んでいるわけですからね。

だから、生きているだけでもう完璧なんです。
なぜなら、価値は存在しないからなんです。

価値に自分を閉じ込めちゃうからしんどいんですよね。

思考のウロコがはがれる時

自然の美しさに僕らが息を飲む時、
それは、むき出しのありのままをみせつけられるからなのかもしれませんね。

僕らは、ありのままを分離と比較に染め上げて、ありのままを見失うわけです。
すると、価値にこだわってしまうわけです。

このこだわりこそが、執着なわけです。

この執着から解放されることが価値あることではないんですよねー。
あなたは、何を考えていようが、今ここにありのまま存在しているわけです。

そして、それだけでもう完璧なんです。

そのためには、まずただ生きているだけのありのままの自分を愛でてあげれば良いんです。
そうすることによって、執着という粘着力は弱まってきます。
ありのままを愛でることは価値を通さずに愛することです。

それでよかったんだ!と知るほどに、思考のウロコが目から剥がれ、
ありのままがよみがえるんです。

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