Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

生きるは喜び!さあ、生きよう

f:id:takuteto:20201228083303j:plain

はじめに

はーい。
どうもおはようございます。
タクさんです。

昭和から、平成に変わるころ。
昭和天皇が、入院している頃にねー。

日本中が自粛ムード一色になったんですよね。

陛下が大変な時に、お祭りなんてしてはならん!
セールなんてもってのほか!
お笑い番組もダメ!

なんなら、テレビコマーシャルの
「皆さんお元気ですか!」
といったセリフも消される始末。

こういった自粛ムードは震災の時にもあったりします。

僕の方にも、
震災で大変なのに、この世はお気楽なんです!とは何事か!
とか、
コロナで大変なのに、オモロイことやりましょー!とはどういうことか!

みたいなね。
そんなメッセージもポツポツいただいたりします。

どうにも、大変な時は深刻にならなければならない。
といった観念があるっぽいんですよねー。

でもねぇ。
実は各地のお祭りというのも、元々は鎮魂の意味を込めた物って多いんですよね。
死者を弔うために、お祭りをしましょう!ってアイデアは僕は好きです。

もちろんね。
生きてると大変なことって皆さんあると思います。

大変なことというのは、死にそうになることなんですけどね。

みんな遅かれ早かれ死ぬわけですからねー。
結局みんな大変な事は待ち構えておるわけです。

「なんじゃいっ!遅かれ早かれやないかいっ!」

って事でもあるんですけどね。

ちなみに、この「死ぬ」ということ。
これもひとつの概念に過ぎないんですけどね。

 

淡々とやる

さてさて、
というわけでして、大変なことが起こった場合は、
基本的にできることしかできないわけです。

そして、できることをちゃんと見極めるためには、
普通でいてなきゃなりません。
それはつまりは平常であるということです。
平常心ですね。

この平常心は深刻になる事ではなくて、ゆったりと落ち着いている。
ということです。
でなきゃ、できることが何なのか?というのもよくわからんことになってしまいますからねー。

みーんな大変な事はある。
人は誰でも何度か死にかける。
そしていずれは死ぬんです。
遅かれ早かれね。

だから、淡々とやることやればいいんですよね。

生きているの正体は喜び

そして、
大変だー!とか、
サイコーだー!とか、
どないやねーんっ!ってなことが起こるのも、

そもそもは生きているからでもあります。

でね。
この生きているということ。
この「生」の正体は喜びなんです。

生きるとは喜びの表現なんです。

生きていることに、なーんの意味も付け加えず、どんな判断も加えずにいると、
そこに残るのは喜びです。

大変だー!となってあらゆることをやるのもまた、充実なんです。

もちろんこの喜びに深刻さというスパイスをふりかけるのも自由なんですけどね。

それだけが唯一の選択肢なわけでもなけりゃ、正しい事でもないんです。
もちろん、間違いだというわけでもありませんけどね。

ただ、同じアホなら踊らにゃソンソン♪
という提案をしているだけなんですよね。

死というものは一つの概念

「私」という思考の枠が取り除かれた時。
「死」というものも、一つの思考の枠に過ぎないことが明らかになります。
全ては、イキイキとした「生」であり、それしかないんです。
そして、この「生」はまさに喜びの表現であり、全ては喜びなんです。

この喜びを今ここで感じること。
これが生の醍醐味であり、それはいつでも、今ここで感じられるものなんです。

くはーっ!今日も起きれたワシはえらいっ!
腰の痛みも心地いい!

ってね。
この喜びに耳を傾けてみるのも良いかもしれませんよん♪

生きるは喜びです。
みんな、今日もはりきって生きましょう!

▼僕のfacebookページはこちら。よかったら「いいね」してね!
コメントなどでつながりましょ〜!