Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

思考に巻き込まれないコツ02【無我の境地の注意点】

f:id:takuteto:20201128181301j:plain

無我の境地

昨日の記事の続きです。
まずは、昨日の記事から読んでいただけると幸いでございます。

 

takuteto.hatenablog.com

 

判断から離れると聞くと、一切の判断が訪れない状態を保つ!
みたいなね。

無我の境地といったものを、僕らは想像しがちです。

確かに無我の境地っていうものはあるんですよ。

境地っていうから、何かしら特別な状態なのか?と言ったような響きがありますが、
むしろそっちの方が自然です。状態というよりは状態を止めると「それ」って感じなんですけどね。

皆さんもそういった経験がある方って多いと思います。

その時は、頭の中の雑音やストーリー。妄想。
これが一切きえることで、
今まで、どれだけこれに振り回されていたのか?
ということに気づくという経験もされたと思うんです。

あ、もし、
「私はそういう経験がないから、まだまだなんだわ〜。」
って思う方もおられるかもしれませんが、それは心配ご無用です。
それもまた、一つの判断です。

すなわち、何かしらの経験によって得るものだ!
みたいな判断によって起こっている妄想なので、
そこは気にしなくても大丈夫です。

無我の境地の厄介な側面

また、無我の境地というのもまた、厄介な側面がありまして、
結局、判断というものは戻ってくるんですよね。

そしてまた、判断に惑わされていくんです。

そこで、あの境地に戻りたい。あの境地こそが真実なんだ!
みたいなねー。
そんな思い込み。
これもまた、判断ですよね。

この判断に強く支配されてしまう。
そんなことも起こったりするパターンがよくあります。

これって、下手に経験してしまったので、余計にこの判断に巻き込まれてしまう。
っていう、負の側面もあったりするんです。

だから、無我の境地なんてのは、記憶や体験になった時点でとっとと忘れてしまった方が良いんです。

悟後の修行

悟後の修行という言葉があります。
それは、悟りの体験の後に続く修行のことを意味しているんだと思うんですけどね。
この悟りの体験は無我の境地の体験を指しているわけですが、
無我の境地の体験って、別にゴールでもなんでもないんですよね。
そもそも、体験になっちゃった時点で、もう的外れになってしまっているんです。

なので、この境地を忘れること。
これが悟後の修行では大事になってくるんです。

ちなみに、下手に体験しちゃったことによって、
この体験に囚われてしまって、余計に拗らせてしまうなんてこともよくあります。
余計にひどく妄想に取り憑かれてしまっているというパターンですね。
こっちの方が深刻なんじゃないか!まであるんです。

なんていうか、自我の肥大化が起きちゃうんですよね。
野狐禅という言葉もまた、この体験にとらわれちゃうことへの戒めの言葉なんだと思います。

悟りという妄想

ちなみに、このブログも、ここをテーマにして書かれているものって全然ないじゃないかー!という思いで、これをテーマにして書いてみようと思ったのがきっかけですからねー。
ま、あまりニーズはないっぽいんですけどね。

でもここってものすごーくハマり込んでしまう心のワナのようなものなので、
要注意だと思っております。

つまりね。悟りの体験だとか無我の境地と言われているものもね。
判断が作り上げる妄想なんです。

つまりはストーリーだというわけなんです。

それはゴールではありませんし、そもそもゴールなんて存在してないんです。
ですが、探究の途上では、そこを通ることになるっていうねー。
そんな妙な側面もあるんですけどね。

ゴールに恋焦がれていればいるほど、この途上の錯覚にハマりやすいという側面があるんですよね。

というわけで、判断から離れるコツについて続けていきたいっ!
ところなんですがー。
ちょっとまた長くなっちゃったので、明日に続きます。

▼僕のfacebookページはこちら。よかったら「いいね」してね!
コメントなどでつながりましょ〜!