Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

人生は近くで見ると悲劇だが、遠くから見れば喜劇だ(チャップリン)

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はじめに

はーい。
どうもおはようございます。
タクさんです。

まー、僕らは過去の問題については笑い話にできたりするけど、
今の問題は、どうにも大きく感じちゃうものですよね。

喜劇王のチャップリンの言葉で、
こんなのがあります。

「人生は近くで見ると悲劇だが、遠くから見れば喜劇だ」

近づいて、近づいて、
フォーカスすればするほど、
点で見えていた問題がズンズンと大きくなってきちゃいますのでね。

問題が大きくなればなるほど、悲劇になってしまうわけです。

遠くから見ると、その悲劇の全体像が見えてきます。

その全体像とは、
自分でこしらえた問題の中に、さらに自分を作り上げ、
その自分が苦悩する。
みたいなね。
一人何役もの喜劇を演じているわけです。

 

人生とは愛しきストーリーである。

人生とは、僕らが紡ぐストーリーです。
そして、このストーリーは愛しきストーリーなんですよね。
あなたの才能によって、ストーリーの題材となるパーツは、
分類され、
分類されたものによってストーリーは紡がれます。

その分離が、自分自身が何か足りない存在であるという錯覚を作り出すわけですが、
べつに、その分離が何か悪いものだということではありません。

この分離とは、あなたの望むもの、才能に関連して起こるものでもあるからなんです。

愛おしいから、ついつい近くでみちゃいがち

あなたが優しいと、人の醜さに悩むことになります。
ですが、あなたの優しさは、人に対する愛おしさによって成り立っています。
人の醜さもまた愛おしいものだと知る時、あなたの優しさという才能は輝き出してくれるわけです。
足の速い才能を持つあなたは、もっと早く走れるはずだと苦悩します。
ですが、その苦悩もまた、あなたの才能によって起こるものでもあるんですよね。
その苦悩が受け入れられた時、才能もまた輝いてくるんです。

才能とはあなたの好きなもの、愛おしいもので出来ています。

だから、分離というのは間違っているものでもなく、消し去るべきものでも無いんです。

ストーリーを真実だと誤解

僕らはストーリーを真実だと誤解します。
ですが、ストーリーはストーリーなんです。
そして、真実というものは、実はどこにも存在していないんですよね。
なぜなら、嘘なのか?本当なのか?といった分類もまたストーリーの中にしかないアイデアだからなんです。
このカラクリが見抜かれる時、別にストーリーを真実化するという錯覚から目覚めるというわけです。
当たり前のカラクリを当たり前に知るというわけですねー。
そして、この当たり前のカラクリは、ずっと知っていたことにも気づいちゃうわけです。

何があっても悪いことにはならない

この気づきは、
あー、みんなもうすでに知っていることじゃん!
当たり前のことじゃん!
ってな感じですので、
悲劇を味わいたい時には、フォーカスしますし、
喜劇でありたい時には、遠くから眺めて楽しんでいる。
ということも知るんですよね。

では、どうやったら、遠くから眺めて楽しめるのヨォ〜。
って話なんですけどね。
そのカギは、
起こっていることを赦し受け入れることにあるんです。

では、赦し受け入れるってどうゆうことー?
って話なんですけどね。

それは、そのまんまにしておくってことなんですよね。

そのまんまで、もう赦されてるんです。
それを知る時、何があっても悪いことにはならないな〜ということを知るんです。

 

takuteto.hatenablog.com

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