Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

【分離の錯覚】わかること=分かること

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・はじめに

はーい。
どうもおはようございます。
タクさんです。

「それ」は完璧です。
完璧であるものって言葉で表現できないんですよね。
だから、「それ」とか「これ」なんですが、
べつに宇宙霊と呼んでも良いし、神と呼んでも良いかもしれませんが、
呼び方や言葉には意味はないんです。
言葉は、イメージの中で何かを限定するツールです。
本来は分かれていないものを分けることで限定するんですねー。
そやって、「それ」を別のものに変換するわけです。

この限定方法は言葉によって作られます。
そして、どこをどう分割するのかもまた、言葉によって線引きされます。
この分割の仕方は言葉によって決められるわけですが、この言葉は各地の文化によって作られるんですよねー。

だから、英語にはない日本語がありますし、日本語にはない英語があったりするわけです。
へぇ〜。こういう言葉をつかってわけるのかー!というのは、センスなんですよね。

そうやって世界をいろどるのって、とっても素敵なものでございます。

ただ、どんな世界をいろどっていたとしても、「それ」そのものはどこかに行ったりはしません。
完璧な全てである「それ」は常にここにあるんです。
だから、何をしてようが、「それ」を消し去ることはできないんですよね。

ただ、隠すことができるだけなんです。

 

本当は隠せてないのに見て見ぬフリをしている

では、どうやって隠しているのか?というと、実は隠せてはいないんですよね。
それは見て見ぬフリ、聞こえないフリをすることによって隠しているつもりになっているだけなんです。

ちょっとカワイイですよね。

子供の口喧嘩で、負けそうになったら耳を塞いで
「アー!アー!アー!」って叫びますよね。
あれと一緒なんです。
この「アー!アー!アー!」が頭の中で流れるストーリーなんです。
それで、真実を隠しているんです。(つもりなんですけどね)

カワイイのは、全然隠せてないということです。

だから「それ」は公然の秘密なんですよね。

自我の芽生(めばえ)

僕らは全てである「それ」を知っているのに、
いつしか「それ」を概念化して掴むということを始めます。
これが始まるのが自我の芽生(めばえ)なんですが、
そうやって掴んだものが、分かったことであり、それ以外は分からないことだ。
ということにしているんですよね。

わかること=分かること
にしちゃってるんです。

つまり、実際にはひとつながりのものを、分けることで、分かることにしているということですねー。

本来はなにも分かれていません。だから分からないが真実なんですが、
これだとダメだ!という錯覚をしているだけなんですよね。
この分けるためのツールが言葉であり思考なんです。

そして、思考や言葉は、実体がないのでずっと働かせ続けなきゃ存続できないんです。
だから、ストーリー化されるんですよね。

ストーリーにはあらゆる概念が使われます。

だから、僕らは正しい概念を欲しがるんです。
より正しい概念でストーリーを展開させたいと願うんですねー。

「それ」は目の前にありながら見過ごされる

僕らは、概念で捉えたものだけが世界だという錯覚をしているので、
「それ」を見過ごしているだけなんです。

概念で捉えないこと。このことを許しちゃえば良いんです。

これこそが、分からんでも良い!分からないままにあってみるということです。

分からないままにあってみる。これは、分離のないままにあってみるということです。
それは、あらゆる目の前のことを加工せずにあってみるということでもあります。

この加工されていない全て。これがあるがままなんですねー。

ハンドルから手を離しても良いことを知る

僕らは常にあるがままにあるんですが、どこかで、それを危険視していたんですよね。
でも、あるがままであってみると、大丈夫やん!ということに気づくんです。

この気づきが、あるがままにあることを自分に許すことになるんですよねー。

まるで、自動運転の車に乗りながら、ハンドル操作を自分がしているという錯覚が起こっているようなものです。

え!ハンドル離しても大丈夫やん!という気づきが、
もともと、自分は何もコントロールしてなかった!ということの気づきになるんです。

なんでもかんでも概念で捉えなくて良かったんです。

このことが許されることで、概念や言葉や思いに加工しない、ダイレクトな全てが、目覚めるんです。
あるのはこのダイレクトさだけなんですね。

このダイレクトさは常に変化しながらも、なんでもないものでもあります。
この変化こそがイノチそのものなんです。
イノチは変化であり、働きなので、分離はありません。
それは、外に吹く風を分けられないのと同様なんです。

 

takuteto.hatenablog.com

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