Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

何かを信じるのではなく、自分で確かめてみるということ

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はーい。
どうもおはようございます。
タクさんです。

ダイヤモンドと石ころ。
これって、同じ石ですよね。
ダイヤが素敵〜(はあと)
って思うのって人間だけなんです。

これ、
言葉にしても一緒です。
権威の人が残した言葉だから真実性が高いということではありませんし、
便所の落書きだからと言って、価値がないということでもありません。

どんなものにも価値の差ってないんですよね。

馬の耳に念仏。
豚に真珠。

これらのことわざは、馬や豚には知識がないかも知れませんが、
決して智恵がないというのではなく、
念仏や真珠に価値があるとする僕ら人間の方に智恵がない。
ということだと言えるんですよね。

念仏や真珠に価値があるとする考え方は、知識であり、智恵ではないんです。

知識とは、人が決めたルールです。
このルールを採用している人の間でだけ通用する考え方なんです。

仏教なんて知らねーよ!という人たちの間では、仏教が尊いものとするルールはありません。ですので、そのグループの中では念仏は価値がありません。
まさに馬と同じ反応になるんですよね。

 

価値や比較はルールの中にしかない

ルールや価値にはどうしても、比較の概念がついて回ります。
どっちが正しくて、どっちが間違いなのか?
どっちがより尊いのか?
といった概念ですね。

僕らはこのルールを真実だと勘違いしちゃっているわけでして、
どんなことにもこのルールを適用しようとしてしまうんです。

自分の夢や望みややりたいことにさえルールを適用させてしまおうとしてしまうんですよね。

これが好きだけど、これは仕事にはならないからそれができない。
と言った考え方なんかも、その典型かも知れませんね。
好きなことよりもルールの方を優先させちゃうなんてねぇ。
それだと、なんのために生きてるのか?
ってなっちゃいますもんね。
命はルールの上に生じているのではありません。

命が先に起こり、その中で遊ぶためにルールを使っているんですもんね。

探究を起こす錯覚

そして、ルールを真実だと勘違いしてしまう錯覚は、
正しいことを常に探し求めるといった衝動も生み出してしまいます。
もっと良いもの。もっと価値の高いものがあるんじゃないか?
と探し求めるわけですが、この探究は、同時に自分には足りないものがあるという錯覚も生み出してしまうので、そこで自分は常に足りないという渇望も作ってしまうんです。
この渇望を埋めようと、新しい概念を求めて探求しようとすると、
その探究が「足りない自分」というさらなる渇望を生み出すということになってしまうんですよね。

僕らは目の前にあるものを見失っている

僕らが見失っているもの。それはいまここに存在しない何かではありません。
僕らは、いまここに、目の前に存在しているものに対して、ルールや概念や言語などのフィルターを通して、
別のものに仕立て上げているんです。
「それ」とはルールや概念や言語を通さない「ありのままの姿」です。
ありのままをありのままに知ること。
これには、知識は役に立ちません。
むしろ、無意識に適用させてしまう知識を一旦置いておかなきゃならないんです。

自分自身で確かめる

知識を置いておき、言葉を通さずに、あるがままにあってみる。
すると知識による世界ではなく、ダイレクトな世界が蘇ってきます。
こればっかりは、自分自身で確かめてみるしか方法はありません。
あるがままにある。
このサインは、フッと力が抜けたリラックスであり、許しのスペースなんです。

言葉の中に真実があるのではなく、知識の中に真実があるのでもないんですよね。

だから、言葉は自分で確かめるためのトリガーとして使えばいいんです。
決して信じるものではありません。

ありがたい言葉を探し求めても、その探究は終わらないんです。

何かのきっかけで、フッと力が抜けて、言葉の一切が消え去る時。
そこにあってみれば良いんです。

そのきっかけが、便所の落書きであるならば、それで良いんです。
それが、あなたにとっての福音なんです。

 

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