Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

ワタシがいないと思うのは危険

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はーい。
おはようございます。
タクさんです。

ウィズコロナ、アフターコロナ。
みたいな言葉が飛び交ってる昨今。

みなさん。
ご機嫌いかがでしょうか?

僕はテレワークだけは継続してほしいなぁーって思っております。
また、通勤ラッシュみたいなね。アホな世界に戻って欲しくないです。

でも、僕ら人間って、
変わりたーい!って口では言いながら、
本当は変わりたくない生き物なんですよね。

変わるのはとっても怖いんです。
このままじゃダメだ!って思いながらも、
今だけはこのままにしておこう。明日からかわろう!
ってね。
そんなふうに考えちゃいがちなんですよね。

まあそんなわけで、
10%から20%くらいは、何かが変わるでしょうけど、
基本的には元に戻っていくんだろうな〜って思います。

 

問題を解決しようとしすぎる問題

僕らが何かしらの問題に直面した時、どうしても解決しなければならない!
という思いは解決できない自分を責めてしまいます。
責められたワタシは、どうすれば良いのか分からず苦しんじゃうわけなんです。

そして、今度はこの苦しみからどう逃れれば良いのか?
その方法を探し求めるわけですね。

問題を突き詰めていくと、条件付けだということに落ち着くんですが、
だからといって、問題はきえることもありませんので、
やっぱり解決しなきゃどうしようもないじゃん!
ってなるんですが、苦しみは責められたワタシが感じてしまっているわけで、
問題とワタシは直接関係がなかったりするんです。

でも自分さえ強くなれば、自分さえ賢くなれば、問題を解決できたかもしれないのに。
ってねー。
なんか、そんなふうに考えちゃうんですよね。

自分は果たして強くなれるのか?

ぼく、youtubeが好きで良く見るんですが、
自分がどうなれば強くなれるのか?的な話ってめちゃくちゃ多いですよね!
また、その話をしている人は、きっと自分よりも強いんだろうなぁ。
みたいなね。
そんな錯覚を感じたりもするわけです。
だって、強さを説く人はは当然強いはずだ!って思っちゃいますからね。
でも、これらはすべてポジショントークですので、そう思うのは錯覚なんです。
そもそも、自分に強いも弱いもありません。

むりやり条件に当てはめて、そして比較の概念に果てはめた時に出てくる概念上の答えにすぎませんのでね。

ワタシがいないと思うのは危険

さて、そんなワタシが苦しみから逃れるために、「ワタシはいない」を利用しようとするのも、
これまた危険です。
ワタシがいないと思おうとするのは、そもそも方法が間違っていまして、
思いの中にしか「ワタシ」はいないっていうのがホントのところなんです。

そして、思いが起こっている時は必ず「ワタシ」という概念の上で成り立っています。

ワタシがいないをそんな思いのストーリというまな板の上に持ってきちゃうと、
苦しんでるこのワタシはワタシじゃないんだーってね。
苦しみを仮のワタシというものでフタをしちゃったりするんですよね。

これ、下手すると、その時だけは成功するので、苦しみから開放された気分になるんですけど、フタとなっているワタシという観念は心の中に残り続けてしまいます。

これを乱発していると、いろんなワタシが心の中に乱立しちゃったりして、
もうワタシがどれなのかわからんっ!
みたいなことにもなったりするわけです。

ワタシというのは思考による世界を組み立てる土台の役割を果たしますので、
ワタシの構築の仕方に不具合が生じると世界を組み立てるのにも不具合が生じたりするわけです。

いるもいないもない

ワタシはいないというのもまた、方便に過ぎません。
本来はいるもいないもないわけですが、思考の働きとして起こっているものでもあるんです。
そして、思考の働きをずっと止め続けようとするのも変な話です。
ただ、思考の働きの中にずっとい続けるのも疲れてしまいます。

ですが、思考は働きだったんだ。止まっていても働いていても、
どちらでも、ちゃんと全てはここにあるんだ!
ということを悟ることによって、とてもシンプルな真実に目覚めると、
複雑な思考のストーリーのカラクリは見抜かれます。
そして、あらゆる思いは見抜かれることによって完全に許されるんです。
許されると、思考の働きもまたシンプルになってくるんです。

 

takuteto.hatenablog.com

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