Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

全てはかけがえのない瞬間

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はーい。
どうもおはようございます。
タクさんです。

今年はどうなんですかねー。
花火大会は行われるんでしょうか?

花火はねー。いいですよね!
バーンと派手に盛大に打ち上がり、そして消えていく。
このはかなさがいいんですよね。

はかないからこそ光り輝く!みたいなね。

そういえば、日本人って特にそういうのが好きなのかもしれませんねぇ。
サクラもぱっと咲いて散っていきますからね。

ここになにか感じるところがあるのかもしれません。

でも、これ。
なにも、花火やサクラだけではなく、
僕らの日常。今起こっていること。
この全ても、まさに今この瞬間だけに起こっていることなんです。
そして、この瞬間は2度と繰り返されません。

まさにかけがえのない瞬間。それが常に繰り返されているんです。
ついねー。
目の前の日常は、同じようなことの繰り返しだ。
ってねー。
感じちゃったりするものですが、昔のことをちょっと思い出してみたら、
あー。たしかにあの時の瞬間は光り輝いていたなぁ。
ってね。
思ったりするじゃないですか。

初めて何かに出会った瞬間。
若い頃の日々。
あんなことやこんなこと。

思い起こしてみると、やっぱり輝いてますよねー。

そして、それは今もまさにそうなんです。
ただ、それを見逃しているだけなんですよね。

 

繰り返しは錯覚。

僕らはついつい、同じような日常。同じような毎日を過ごしているように感じちゃいます。
まさに日常は、同じことの繰り返し。
そういう風に感じたりするかもしれませんが、そんなことはありません。
僕らの目の前の日常は、2度と同じことを繰り返しません。
この瞬間はまさに今だけしかないかけがえのない瞬間なんです。
そして、この今は取っておくことはできません。
今しか味わえない瞬間なんです。

繰り返しが起こる仕組み

ではなぜ、繰り返しだと思っちゃうのか?
といいますと、それは、目の前のことを認識しようとするときに、
同じパターンを当てはめているだけだからなんです。

つまり、目の前のことを別のもの。いつものことにすり替えているんです。

同じ観念を当てはめているだけなんですよね。

そして、そのときに、目の前のことを見るんじゃなくて、当てはめた観念の方を見ちゃうんです。
だから、同じような毎日といったような勘違いが起こっているんです。

かけがえのない瞬間

僕らは起こっていることを取っておくことはできません。
音楽も、風も、捕まえることはできませんよね。
すべては、今ここで起こる表現だからです。
そして、この表現こそ、僕らそのものなんです。
だから、鼓動は脈打ち、僕らの感覚は今しかない感覚を表現するんです。
そして、今は2度と戻ってきません。

そんな今を思考が捉えるとき、もうこの瞬間は全く違うものに加工されてしまうんです。
加工されたものには味わいはありません。

料理は食べてこそ味わえますが、レシピを取っておいたとしても、
このレシピは味わえませんからね。

味わいに名前をつけた途端、本当の味わいは消えちゃうんです。
感覚も名前をつけた途端、別のものに置き換えられちゃうんですよね。

名前と記憶の中には、生の経験はありません。

ダイレクトな経験は、今ここでしか味わえないんです。

光り輝く目の前の日常

打ち上げ花火と同様に、目の前の日常もまさにこの瞬間しかありません。
だからこそ光り輝いているんです。

そう思おうとしなくても構いません。
そもそも思いとしてこれは取っておけませんので、
思いで理解しようとしてもできないんですよねー。

だったら、どうしたらいいの?
って思うかもしれませんが、取っておこうとしなくていいんですよね。
だってできないから。

思いの加工に頼らなくてもいいんです。

頼らなくてもいいんだー!と知ることによって、
思いの依存から解き放たれます。

すると、思いもまた、花火の一瞬の光と同じように、
今のこの瞬間に彩りを添えるスパイスであったことを知るんです。

そして、この瞬間は常に許されているんです。

 

※この瞬間に立ち返るコツについて、わかりやすくご説明します。
セッションの後だとブログの見え方も変わったとの声を良くいただきます!
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takuteto.hatenablog.com

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