Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

【私からの目覚め】くもの糸という物語の意味とワタシからの目覚め

f:id:takuteto:20200401213229j:plain

はーい。
おはようございます。
タクさんです。

みなさん。
くもの糸というおはなしがございますよねぇ。

あらすじはこうです。

釈迦はある日の朝、極楽を散歩中に蓮池を通して下の地獄を覗き見た。罪人どもが苦しんでいる中にカンダタという男を見つけた。カンダタは殺人や放火もした泥棒であったが、過去に一度だけ善行を成したことがあった。それは林で小さな蜘蛛を踏み殺しかけて止め、命を助けたことだった。それを思い出した釈迦は、彼を地獄から救い出してやろうと、一本の蜘蛛の糸をカンダタめがけて下ろした。

暗い地獄で天から垂れて来た蜘蛛の糸を見たカンダタは、この糸を登れば地獄から出られると考え、糸につかまって昇り始めた。ところが途中で疲れてふと下を見下ろすと、数多の罪人達が自分の下から続いてくる。このままでは重みで糸が切れてしまうと思ったカンダタは、下に向かって大声で「この蜘蛛の糸は己(おれ)のものだぞ。」「下りろ。下りろ。」と喚いた。その途端、蜘蛛の糸がカンダタの真上の部分で切れ、カンダタは再び地獄の底に堕ちてしまった。

無慈悲に自分だけ助かろうとし、結局元の地獄へ堕ちてしまったカンダタを浅ましく思ったのか、それを見ていた釈迦は悲しそうな顔をして蓮池から立ち去った。
(wikipediaより引用)

まあこれ、僕は読んだとき、正直、お釈迦さんは性格ワリィなー。
なんて思いました。

なんか悪人を気まぐれに助けてやろうとしたけど、やっぱり浅ましいやつだったのでやーめた。っていうお釈迦さんは単に悪人をもてあそんだだけちゃうんか!
ってねぇ。
思いますよねぇ。
そのくせ、悲しい顔をして立ち去るって。
なんか、何かに酔ってそうでウザい!とすら感じちゃいます。

この蜘蛛の糸というお話は元ネタがございまして、
アメリカ作家で宗教研究者のポール・ケーラスが1894年に書いた『カルマ』という本であり、その訳書である鈴木大拙の『因果の小車』の一説が元ネタだと言われています。

また類似したお話もたくさんあり、
ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』における「1本の葱」の挿話にも似た話がありまして、

こちらでは、意地悪だった女性が死後地獄に落ち、この女性の守護天使がなんとか神様に頼み込み助かるチャンスを差し伸べたけど、その女性の意地の悪さがのせいで台無しになってしまい天使が悲しむ。
みたいなお話になっていました。

これだと、蜘蛛の糸のお釈迦さんのように、気まぐれにもてあそんだわけではなく、最後に天使が悲しむところも辻褄があいますよね。

さてさて、そんな蜘蛛の糸の話なんですけどね。
これって我欲へのいましめ。
みたいな教えが語られておるわけでして、

今日はそのへんについて書いてみたいと思います。

 

 

我欲について

なんて言いますかねー!
イチローはワシが育てた!じゃありませんが、
このワシが!という思い。これが「私」という感覚です。
私という感覚はあらゆる思いや感覚を自分のものとするところから始まってるんです。
この感覚や想いがある限り、「私」って絶対的に存在するやん!
というねー。強固な信念になっているんですね〜。
そしてその自分のものをより良くしようと働くわけですねー。
ここで我欲が登場するわけです。
「私が!私が!」という思いですね。

我欲の克服

では、
どうしたらこと私という感覚を手放せるのか?
と言いますとね。
そもそも、この感覚は「私」ではないんですよね。
単なる感覚なんです。単なる感覚に「私」というレッテルを貼ってるだけなんですよね。
私はどうしても存在する!という思いって皆さんあると思うんですが、
これって、「私」ではないんです。
だから、この感覚を手放そうとしたところで、うまくいきません。
手放そうとするのもこれまた、私がよりよくなろうという思いの一種なんですが、
「私」を信じているからこそ手放そうとしているわけなんです。
また、ややこしいのはこの手放そうとしている感覚。
これもまた、「私」ではないんです。

まーでも、僕らは「私」を設定しないと始まらない!って思ってますからねー。
常に身近なものを「私」と設定するんですよねー。だから思いや身体が「私」に設定されやすいんですねー。
この「私」というものは単に設定されたものなんだということが、見抜かれること。
これが我欲からの解放になるわけでして、なにも自分勝手な振る舞いを我慢しようとすることではありません。
もちろん、自分勝手な振る舞いを注意することは大事ですけどね。
それは節度をもつという話であって、「私」がいないという見抜きとはまた別の話なんです。

ワシが育てたの復活とクモの糸お話。

「あれれ?私ってもしかして居ないのでは?」という真実を垣間見るのが一瞥なわけですが、その瞬間!よっしゃワシが悟った!と思ってしまうととたんに元の木阿弥に戻ってしまいます。
それどころか今まで以上に強大な「私」という信念を作り上げてしまうことにもなってしまうんですよね〜。

いわゆるエゴの肥大化です。

実際この感覚はとても厄介でありまして、あらゆる悟りを示唆するお話の全ても、この一瞥の体験を経ることで理解されちゃいます。
ですが、理解してる「私」を作っちゃうことで、今まで以上の肥大したエゴを作り上げちゃうんですよね〜。
理解してしまっているから、「悟った私」像はどんどん強化されちゃったりもするんです。
だって、そういった本を読んでもしっかりとわかっちゃいますのでね。厄介なことに。
だから、自らを悟りを経た聖者であるという思い違いも起こったりするわけです。

もしかしたら、蜘蛛の糸という物語はそんなことにたいする注意喚起という意味もあるのかもしれませんねー。
なんて思いました。
カンダタの前に現れた一本のくもの糸。
これはまさに一瞥の糸であり、それはすべての人のものでもあるわけです。
ですが、それが私のものだと思った瞬間、この糸は断ち切られ、地獄へと落ちてしまい元の木阿弥に落ちてしまう。
これは悟りの光を垣間見たときに、もう速攻でその悟りを忘れてしまいなさいよ!
これを私のものにしたとき、とたんに我欲の海に落っこちてしまいますよ!

みたいなね。
そんなことを示唆しているようにも読めます。

わからなくていいという智恵の目覚め

な〜んにもわからなくていい。
このわからんを許し受け入れたとき、
「私」の役目が終わるんです。
とはいっても便宜上の「私」はちゃんと残ってくれます。
それはもともと「私」は便宜上のものだったことが見抜かれるからなんです。

気付いたら「ワタシ」はどうなるの?系の質問って多いんですが、
ワタシがどうにかなるということはありません。
もちろん、副作用的に変わることはありますけどね。

 

▼僕のfacebookページはこちら。よかったら「いいね」してね!
コメントなどでつながりましょ〜!