Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

ストーリー依存からの卒業

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はい
ラーメン大好きタクさんです。
郷ひろみさんが以前テレビで、僕はラーメンをほとんど食べない!
って言っていて、
いやぁ。すごいなぁ。。。きっとストイックなんやろうなぁ。
と思ったんですが、
よく考えると、懐石料理とかフランス料理とか回らないお寿司屋さんとか
もしかすると、そういうものを食べてはるんじゃなかろうか?
であるなら、ワシはそんなもんほとんど食べないので、
よっしゃ!互角!
って思ったけど、
やっぱり全然互角じゃなかったと思い直しました。

おはようございます。
皆さんは今、何ラーメン気分でしょうか?
僕は担々麺気分でございます。

 

体験は言葉や思考で出来ていない。

あなたはラーメンの味をどこで感じますか?
湯気とともに香る匂い。
目に映る見た目。
口の中で味わうわけですよね。
言葉で聞いたことで理解するわけではないですよね。
これがまさに体験ですもんね。
体験を言葉で加工することはできますが、
加工された言葉の中には体験はありません。
そうなんです。
言葉の理解には、ラーメンの感触も味も存在しないんです。
言い換えると言葉の理解には真実は存在しないということになるんです。

ラーメンに限らず、
お茶ならお茶。
コーヒーならコーヒー。
目の前に起こっていること。
これらも言葉で説明されることは体験ではありませんよね〜。
実際に起っているのは、体験であり、
この体験は言葉の中には存在できないんです。

思考は言葉とセットになって機能する

僕らの思考は言葉とセットになっています。
なので、思考とは言葉そのものでもあります。

なので、言葉の中に体験がないのなら、思考の中にも体験はないんです。

思考は体験の説明に過ぎない

あくまでも思考はあと付けの説明でしかないんですよね。
思考や言葉は、このあと付けの説明から抜け出すことはできません。
これって、地図が実際の道になることはできないのと一緒なんです。
実際の体験と、思考と言葉で表現されるストーリーとでは全然違いますもんね〜。
そして、真理とか真実って言われているものっていうのは、起こっていることそのものですので、これを言葉やストーリーとしてつかもうとしても掴めないんです。
だから、真理は言葉を超えたものなわけですが、
それは真理がとっても高度だから言葉で説明できないということではなく、
あらゆるすべての事って言葉の説明を超えたものだということなんです。

体験に行為者はいない

また、体験には行為者はいません。
体験を経験しているのは「自分」だという思い。
この思いもまた言葉でできた説明に過ぎないんです。
実際にはダイレクトな「起こり」しかアリませんのでね。
ラーメンを食べるというのも、説明にすぎないんです。
実際には言葉になる以前の味の体験。
「これ」のみしかないんです。

思考本位から今に立ち還る

この「これ」とはまさに「今」にしかないんですよね。
そしてそれが全てなんです。
この今は掴み取ることはできません。
掴み取ることができない「今」を言葉の説明という形で僕らは掴み取った気になっているわけですが、この言葉の中にはもう真実は残ってないんですよね。
だからもう言葉で紡がれるストーリーは置いておいて、
今に立ち還ってみたら良いんです。
言葉では今を表現できません。
言葉を置いておくと、もう「今」です。
言葉と思考では退屈だと思っていた何気ない「今・全て」が、
圧倒的なダイレクトさとしてここにあるんです。

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