Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

手法と原則

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ほーい。
どうも、子供の頃は「ウル技大技林」をよみふけっていたタクさんです。
おはようございます。

「ウル技大技林」とは何か?といいますと、
ファミコンなどのゲームのすごい技や裏技が紹介された本なんです。
確かあの頃は毎年この本が出ていたと思いますが、
なんていうか、ロマンがあって読んでるだけで楽しかったなぁ〜。

思うと裏技ってバグだったんですけどね。
今はゲームやってて壁にハマって動けなくなったりしたら、
くそー、バグがあるじゃんっ!はよ直せよ!ってなったりするんですが、
子供の頃は裏技を発見した!って興奮してましたもんね。
しかもそんなバグ集を本にしたら売れてしまう!
って。
なんともロマンあふれる時代と言えるかもしれません。

さて、皆さんが求めるものってね。
やっぱり「どうしたらいいの〜?」という答えだと思うんです。
このどうしたらいいか?っていうのはいわゆる手法ということになりますよね。
ここで抑えておきたいのは手法は原則とは違うということです。
と、いうわけで、今日は手法と原則ということについて書いてみたいと思います。

※そういえば、京都に「と、いうわけで」というラブホテルがあったんですが、今もあるのでしょうか?

 

ーー

手法と原則の違い

いわゆる「それ」とか「悟り」とか「非二元」とか。
呼び方は何でもいいですが、これらの話というのは原則的な話なんですよね。
原則とは、元々そうである。といったような話なので、
なんていうか「地球は丸い」的なお話なんですよねー。
なので僕も、これは当たり前のことなんですぅー。ってね。
口酸っぱく言っているわけでして、原則であるがゆえにこれは信じる話でもなく、
信仰する話でもないんです。
と同時に、僕はこのブログでは原則ではなく手法のお話も良くしています。
僕がよく書いている手法の話は、自分は何を掴み取っているのか?
それを知るためのコツといったようなお話が多いです。
ですが、手法は原則ではないので、時と場合によって変わるものなんです。

手法は全てに通じるものじゃない

手法というのは原則ではなく、コツやレシピのようなものでして、
この手法は、人それぞれに合う合わないもありますし、時と場合によってコロコロと変わるものです。
僕らは真理を得ようとしてついつい手法を掴み取っている場合が多いんです。
なぜなら、真理というのは掴みようのないものですからねー。
掴み取れるものは手法であって原則ではありません。
自分の手法を信じるのもいいですが、時と場合によっては変わるものでもあるので、頭でっかちな信仰は、真理という原則を見抜くのにじゃまになるんです。

瞑想の大原則

よくね。
瞑想をすればいいんでしょうか?って聞かれます。
もちろん瞑想は素晴らしいんですが、
瞑想という言葉の定義って人それぞれあると思うんです。
その定義によって瞑想は原則にもなれば手法にもなります。
僕は、そのまんまに在ればいいんです。
思考は一旦おいておいて、今ここにリラックスするんです。
って言ったりしていますが、
これこそが、僕の瞑想です。
なので、「タクさんは瞑想しますかー?」
って聞かれるんですが、いわゆる座って目を閉じてといった瞑想はあまりしないです〜。
って答えていますが、実は今にあるっていう瞑想についてはしょっちゅうそうなっているんです。
大半はそんな感じです。
これはするものじゃなくて、していることをやめることなんですけどね。
していることをやめると、もう完璧なすべてが残る。
って言うことなんですが、これは、手法か原則かといえば、原則です。
なので、瞑想というのは原則だと思っています。
まさにあるがままにある。これが瞑想なんですね。

ただ、瞑想に入る準備運動としていろんな手法があるんです。
この手法が、例えば座り方だったり、マントラを唱えるだったり、
ブザーの音を聞くというものもあれば、呼吸法だったり、
中には儀式による伝授があったりするものもあるわけです。
これらはあくまで手法であって、原則の瞑想ではないんですよね。

手法は瞑想の準備運動

いろんな瞑想がありますが、ただ在ってみること。これが瞑想です。
このただ在ってみるっていうのは、思考をおいておくということです。
これが、最初は結構難しいんですよね。
ただ在ってみるというのは、何かをすることではありませんのでねー。
やっていることをやめるための準備運動として様々な手法があるんです。

だから手法に何ら価値があるわけではありません。
準備運動である手法へのこだわりはさっさと手放しちゃったほうがいいんです。

何かの伝授とか、何かを唱えるとか、そういうのは全部手法なんです。

手法は真理でも真実でもありません

様々な教えもまた、手法です。
手法の中には真理や真実はありません。これは道案内の看板のようなものですのでね〜。
看板の中に目的地はない。
地図の中に実際の道があるわけではない。
ということなんです。
僕らは、真理を求める際に手法を掴み取っちゃういがちなんです。
なぜなら真理は掴み取れないですが、手法は掴み取れますからね〜。
原則は真実であり、当たり前のものです。
ここには信じるとか信じないといった余地もないんです。