Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

スピリチュアルと悟り

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はい。
おはようございます。
タクさんです。

この話は読んでる人はどう思ってるのかわかりませんが、
僕個人としてはスピリチュアルでもなく、宗教でもなく、
だからといって科学でもなく。
それ以前の根本的な当たり前の話を書いているつもりです。
でも話というのは言葉にする以上、どうしても話し手の色がついちゃうもんですのでねー。
欧米の人たちの話にはなんとなーくキリスト教の影響があったり、
ラマナさんのようなインド系の聖者の話だと、ヒンズーの文化の影響があったり、
お坊さんの悟りの話はもう仏教の匂いがプンプンします。

日本ではなぜか、悟りの話は仏教だけではなく、スピリチュアルだとか神社だとかの色がついているのもよくあります。

ま、それはそれでいいじゃん♪とおもいますが、
こういう話っていうのは、自分で確かめてみるという話ですのでね。
自分の在り方をみるツールなので、話の中に真実や真理や輝かしい悟りが存在しているわけではないんです。
なので、話を信じて付きしたがうのではなく自分で確かめるツールとして活用すればいいんですよねー。

 

 

スピリチュアルが嫌われるわけ

スピリチュアルってねー。
みなさんお好きですか?
僕はまあ、好きでも嫌いでもないんですが、
結構胡散臭く思われたり嫌われたりすることも多いのが事実です。
そもそもね。
スピリチュアルって、好きで遊ぶものなんです。
嫌いならスピリチュアルで遊ばなくてもいい。
ただそれだけなんです。
スピリチュアルこそが真理であり高尚であり、
物質主義よりも精神主義の方が素晴らしいもの!ということではないんですよねー。
そもそもここからここまでが物質主義でここからが精神主義なんていう線引きも存在してませんしね。
でもこの辺の特別意識が差別意識というものを生じさせているということが垣間見れるところに嫌われる理由があったりすると思うんですよねー。
私こそが特別な能力を持っている。
この学びこそが、人類を、そして宇宙を向上させる!
みたいにね。

なーんとなく、
そんな差別主義的な思い込みが垣間見えるパターンなんかもあるんですよねー。
なんかこのあたりが、スピ系界隈の問題点なのかもしれません。

人に上等も下等もありません。
そもそもありとあらゆるものに、上等も下等もありませんからねぇー。
あるのは好き嫌いなんです。

権威が信頼だった時代はもう古い

こういう差別主義がなぜ起こるのかというと、
いわゆる一部のスピリチュアルなリーダーや新興宗教の教祖が、権威というものを使って信頼を得ようとする方法をとるからなんです。
この権威主義は会社や組織の一部では今でも残ってますが、もうどんどんと古くなってきている概念です。
一昔前はこの権威によって信頼もされたので、
やたらとうまい具合にこの権威をチラつかせて信頼を得ようとしているんですよね。

「おフランスではこう言った作法が当たり前ですのよっ!」
みたいなね。

おそ松くんのイヤミなんかの言動も、権威という概念の一つなのかもしれません。

そんな権威の象徴が、おフランスだけではなく。
特別な能力だったり、心の内面を言い当てる能力だったり、
妙な世界観の押し付けだったりするわけです。
そもそもスピリチュアルの能力っていうのは特別でもなんでもありません。
好きな人の間でだけ、「すごいねー」って言われるだけのことであって、

足が速い!
あやとりがうまいっ!
歌が上手いっ!
指芸が達者!

とかと同じようなものなんです。

この権威という幻想の張りぼてによって信頼を勝ち取る方法は、
もう古い手法で、今後はどんどん古びていくものだと僕は思っています。
そもそも権威を使ったら逆に信頼されなくなったりもしますからね。

私こそが特別な能力を持ってるんです。
私はあなたとは違うんですっ!

みたいなことを言った日には、シラーってなっちゃいますもんねぇ。

またスピ系界隈では陰謀論なんかも結構みんな好きだったりするわけですが、
敵である陰謀を働く権力者とスピ系の権威主義は同じようなものだということに気づいた方がいいかもしれません。

スピリチュアルの楽しみ方

まあ、かと言ってじゃあ、スピリチュアルはダメなのか?というとそういうことではありません。
そもそも観念や概念に良いも悪いもありません。
これらは楽しく遊ぶものです。
心がすっとかるくなったり、安心に包まれて安堵すること。
これらを心から楽しめばいいんです。
それらを楽しむには、
うっすらとはびこる差別主義を排除すればいいんです。

あの人はリュウが見える。私は見えない。
あの人はゲートが見える。私は見えない。
だからあの人は優れていて私は劣っているとかね。
こんなのもいわゆる差別主義による錯覚です。
この錯覚によって、自分を卑下しちゃうと、楽しめるものも楽しめません。

そうじゃなくて、
あの人はリュウというイマジネーションを作って遊んでいる。
私はわたしの好きなイマジネーションを作って遊ぶ。
どのイマジネーションが正しくて、どのイマジネーションが間違いということではない。
そもそも正しいも間違いもないんです。
物質主義も精神主義もどちらもイメージ上の遊びです。
好きな方を楽しんでオッケーなんです。
ここに、どちらのほうが高尚であると言ったような思い込みを持っちゃうと、
自分の中に分離を作ることになります。
それが有りもしない「足りない」を作ってしまうことにもなるわけです。

 

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