Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

人生を課題としてではなく、ワクワクとして遊ぶ

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はーい。
おはようございます。
タクさんです。

とうとう、ハマっていたゲームに飽きてしまいました。
アサシンクリードはかなり長くやり込んでたんですけどねー。

アサシンクリードオデッセイは、オープンワールドでは、
ホライゾンゼロドーンの次くらいに面白かったなぁ〜。

ただ、僕、ゲームにハマっている間は他のことが思いっきり停滞してしまうので、
ちょっとしばらくゲームはお休みにして、ゲーム以外の人生ゲームを遊ぼうかと思います。

やっぱりねぇ。
同じルール、同じ設定の中でずっと遊んでいると飽きちゃうもんですね。
これって、人生も一緒で、
うまくいくことばっかりやってると、予定調和になっちゃうし、
同じことの繰り返しをずっとやってると、やっぱり
「なんだかなぁ〜」
ってなってくるんですよね。

そんな時は、人生においても「新しいゲーム」に乗り換える転機なのかもしれませんねー。

 

 

なーんにもないは落ち着かない。

まあ、そんなわけで僕らは常に人生というゲームを遊んでいるようなものです。
ただ、ずっとゲームをしているわけではなく、適度に休んでいるんですけどね。
僕らは常に思い込みや考え事の中に入り込んでいるような気がするかもしれませんがね。
実はなーんにも考えていない。つまり「なーんもない」の中にただ在るだけ。
っていう時も結構あるんですよね。
単に歩いてる時や、お風呂に入ってホッと一息ついている時、またぐっすりと寝ている時なんかがそうですね。
そして、ハッと我に変える時、
「あれ?今は何をしてるんだっけ?」
「次はどうしなきゃいけないんだっけ?」
ってね。
ゲームのルールであるピースをせっせと集めるんです。
そんな思考ちゃんの働きの中では、この「なーんにもない」という状態は、
とっても落ち着かないものなんです。
なぜなら、ゲームは何かしないと進まないからですね。
「なーんにもない」は許されないんです。

落ち着かないの奥にある恐れ

ただ、僕らはこの人生のゲームをゲームだとは認識していません。
おもいっきりリアルだと感じているんですね。
だから、ゲームで勝タなきゃならないし、勝つためには、常に「成長しなきゃ」という焦りもあったりします。
今まで築いてきた自分を形作るいろんな「武器」ももちろん持っています。
その頼もしい「武器」への愛着もあると同時に、この「武器」だけでは物足りないという不足感も同時に持っていたりもするわけです。
なので、常に新しい「武器」は欲しいわけですので、
「なーんにもない」の中に落ち着こうとするのには、恐れがあるんですよね。
この恐れが大きく膨らんでくると、
「失敗できない!」という思いも強くなってきます。
また、今までの「失敗」に対する後悔もまた大きくなってくるんですよね。
不安や後悔、罪悪感というのも、そんな感じで起こっているんです。

恐れはゲームを止める

ゲームの中の「自分」。
そして、その「自分」が持っている武器。
これらにある程度の自信を持っている場合はね。
果敢に人生のゲームにも挑んでいけるんですよね。
そして、成功して、新たな武器を手に入れたりするとね。
多少の失敗も乗り越えられちゃうんです。

でも僕ら人間ってそんなに強いものでもありませんのでねー。
時にこの「自分」に自信を持てなくなることもあるわけです。
それは、疲れなのかもしれないし、たまたま失敗が続いちゃったりしたのかもしれないし、
理由は様々なんでしょうけどねー。

そして、自信よりも恐れの方が大きくなってくると、怖くてゲームを進められなくなっちゃうんですよね。
まあ、それでね。少しずつ身動きが取れなくなってくるんです。
この身動きが取りにくくなる不自由感。
これもまた、失敗以上の苦しさだったりするんですよねー。

恐れを取ることでゲームを進めようとする

こうなってくると、より強い「武器」が必要になってくるわけです。
この武器によって恐れが取れるはずだ!と考えるんですよね。
そして、いろんな「武器」を手に入れることによって、
時にはうまくいったりもするわけです。

なので、余計に躍起になって武器探しの旅が深まるんです。
ですが、当然のことながら、うまくいかないこともあるんですよねー。

一旦うまくいっても、またうまくいかなくなる。
そんなこともよくあるんです。

ややこしいのは、今持っている自分の武器(信念や思い込み)。
この武器への愛着から、これを手放せないから新しい武器を手に入れられない。
ということも起こったりするわけです。

ゲームは本来楽しいもの

そんなこんなで、うまくいかないことが重なってくると、
迫り来る人生というゲームは重苦しいものになっていってしまうわけです。
ゲームを変えるのも、自分や自分の武器を変えちゃうのも、
いっそのこと、「武器」をぜーんぶ捨てちゃうのも、
ホントはもっとカジュアルにしたらいいですし、
ゲームの失敗なんてそれほど気にしなくても良いんですけどね。
やっぱり、ゲームに強いリアル感があるものですから、
本来は楽しく遊ぶものであるゲームはどんどん重苦しく、
責任のあるものになってしまうんです。

イノチの表現であるワクワク

迫り来る人生というゲームも、プレイヤーである「自分」も。
全ては、人繋がりのイノチの表現です。
この表現は、生き生きと湧き上がって来ているんです。
それは、うまくやらなきゃならないわけでもなく、クリアすべき課題でもないんですよね。
なので、実はそこに「武器」は必要ないんです。
「武器」とはある種の指針のようなものなんですけどね。
そんなものなくても、乗っかるだけで良いんですよね。

恐怖かワクワクか?

これが恐怖なんです。ゲームは打ち克たなければならない課題になっているんですよね。
課題だから怖いんです。
単に乗っかるというのは、湧き上がってくるイノチの表現との一体化なんですよね。
ホントはずーっと一体だったんですが、分離して整理して理解するという思考の仕組みが、
この一体感を覆い隠しているだけなんです。
僕らがなにかを「わかった」としているものはこの分離して整理されることですのでねー。
わかろうとすると分離の概念を利用せざるを得ないんですよねん。
なので、ここはいっそのこと、わかろうとせずに、わからんままでいてみるのが良いんです。
すると目の前のゲームは、湧き上がるイノチの表現としての姿を表してくれるんです。

 

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