Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

分離という大前提の概念

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ほい。
おはようございます。
タクさんです。

いやーもう、えらいことですよ。
一ヶ月がたつの早すぎ!

しかも1年がこれ12個しかないって、
こりゃー今年もあっという間でっせ!

でね。

ぼくも、時間はありません!
とか言っておきながら、
一ヶ月たつの早いなぁー!っとかいってると
やっぱり皆さん。疑問に思うかもしれません。

「なんで時間がないのに、時間が早いとか気になるんよっ!」
ってねー。

おい、タクよ!
お前、時間がないと言ってたのにどういうことなんだ??
ってな疑問ですね。

私はいないと言っておきながら、私の話をする先生。
全ては完璧と言いながら、悲しむ人がいる現実。

なんていうか、僕はここについては全く疑問に思ってはいなくて、
ここに疑問点なんて一切ないんですが、
でも、ここに疑問を感じるカラクリもよく分かるんです。

なので、なんとかこのカラクリを説明できないものか?
と色々と書いたりしているわけなんですが、
なぜ、このカラクリの説明が難しいのかというと、
僕らは無意識に掴んでいる架空の大前提があるからなんですよねー。

この大前提というのが、分離の考え方なんです。

そして、僕らを悩ませているのは、この分離から発せられる、
「なんとかせにゃいかん!」思考なんです。

???
ってなってる方もおられるかもしれませんので、
今日はその辺について書いていきたいと思います。

 

まず、
このカラクリの説明が難しい一つの理由として、
どうしても言葉での説明になってしまうからという部分もあります。

言葉というのは、分離の概念が大前提にあってこそのツールです。
なので、言葉をやりとりしている時、僕らはお互いに全ては分離し個別化されているという
大前提を共有した上でやりとりしていることになるんです。
そして、そこに無意識になっているんです。

つまり、とある概念を大前提とした上でやりとりしているということを忘れているんですよね。
なので、言葉でやりとりされた世界観が真実かのように感じてしまっているんです。

また、実際に目の前にある真実と、真実かのように感じてしまっている世界観は、
絶妙に混ざり合っているんです。

どういうことかと言いますとね。

たとえば、コインの表側を観ているとするじゃないですか。
実際は表も裏もなく、コインと名付けているものを見ているわけなんですけどね。

この表側を見ている時、僕らは当然のようにこのコインには裏側があるというイメージを付け加えて見てるんですよね。

実際にあるのはこの表だけ。なんですが、イメージとして、裏側もあるよねというものがつけ加わわったうえで、裏側も含めて実際にある!と捉えちゃう。って感じなんです。

つまり、すべてに分離の概念を付け加えてみるってかんじなんですねー。

付け加えてみる。それは加工されたものを見ているということなんです。
そして、この加工がないと掴みとれないんですよね。
つまり、思い込みという形にするには加工が必要なんです。
そして僕らは思い込みを真実として受け取っているということなんです。

ちょっと話がややこしくなっちゃいましたね。

分離の概念があるからこそ、僕らは、どうあるべきなのかに迷います。
そして、あるべき正解のありかたを取り続けなければならないという呪縛にかられるんです。

「ある」でも「ない」でもないんですよね。
あるもないし、ないもないんです。

うはーっ!何にもないじゃーんっ!っていうね。
喜びなんです。

どういう態度を取らなければならないのか?という話じゃないんですよね。
なので、何者かになろうとしなくていいんです。
そして、しなくていいという許しを知ることで、
どうあるべきか?という呪縛から解き放たれるんです。

なので、どういうことなんだろう?ってね、
わからなくなる時には、それはわからないままにしておきつつも、
今自分は、どうすべきか?という思いにどのように取り込まれているのか?
っていうことをね、つぶさに観察してみたらいいかもです。

わかろうとする思いも、何をわかろうとしているのかというと、
どうするべきか?ということについてなんですよね。

へー。こんな風に「〜であるべき」にこだわっていて、それを探求してるんだーってね。
まるで人ごとのように観察してみるんです。

 

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