Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

なーんにもないの充足感

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ほい。
おはようございます。
タクさんです。

みなさん。
はじめ人間ギャートルズっていうアニメはご存知ですか?
若い方は多分知らないだろうなぁ〜。

僕が子供の頃でも再放送で夏休みにやってたようなアニメでしたので。

でも、「あの肉」ならきっと知ってるんじゃ無いでしょうか?
いわゆる「マンガ肉」ってやつです。
わからない方はマンガ肉でググってください。
あの肉をどうしても食べてみたいと思ったものですが、この「あの肉」が初めて登場したのも、このアニメだったんじゃ無いのかなぁ?って思います。

でね。
主題歌の一つで
なーんにもない♪なーんにもない♪
という出だしで始まる歌があるんですけどね。
あの歌がなんとも気の抜けた感じで好きなんですよねー。

なーんにもなさ。
この充足感となんにもない中にあらゆるものが起こる感じ。

この感じも、この歌によく出てるなーって感じます。


【公式】はじめ人間ギャートルズ ED「やつらの足音のバラード」”GIATRUS, THE FIRST MAN”(1974)

ま、
なんていますか。
僕らの眼の前ではめまぐるしく世界が動いているように感じるかと思います。

確かにあらゆることは起こっては消えていきますが、
同時に、なにも起こってすらいないんですよね。

なーんにもないなかで全ては起こっているけど、
「ある」でも「ない」でも無い全てがある。

それが真実なんです。

「うわっ!なんにもないやんっ!」
っていう事実にびっくりする体験。

一瞥体験って、なんかそんな感じなんですよねー。

一番あると信じていた「私」さえいないことにびっくりするんです。

そのうち、このびっくりは当たり前になってきます。

当たり前というのは、
そもそもびっくりするほどのことでもなかった!
なんにもないのはそもそも当然だった!って感じです。

当たり前になってくると、何にも無い中であらゆることを「ある」としていた心のことも、
よくよく観えてきたりもするんですよねー。

すると、心ちゃんという働きもまた、とても可愛く愛おしいものだと気付くんです。

 

「なんにもない」には完全な充足感があります。
僕らが求めている充足感。安心感もまた、「なんにもない」にあるんです。

僕らはが夢や希望の先に望んでいること。
実はそれもまた「なんにもない」なんですよね。

欲求に対して、僕らはその欲求を消そうと働きます。
欲しいものが手に入った時に感じる充足感は、
実は「欲しい!」という思いが消えたことによる充足感だったりするんですよねー。

欲しいものを手に入れようとしているようにみえて、実は「なんにもなさ」を求めているんです。

でもね。
「思いこみ」のほうは、何かを手に入れることで充足感が得られるはずだ!
ってね。
まさに思い込んでおりますので、この「なんにもなさ」をとても頼りなく、不安定に感じたりするんです。

だから、「なんにもなさ」を避けようとするんです。

何かを手に入れて、せっかく「なんにもなさ」にリラックスができたとしても、すぐにまた満足できなくなってしまうんですよね。

これが思い込みの錯覚なんです。

なので、追われるように、また次!また次!ってなっちゃうんですよねー。

ま、そういうわけですので、
とりあえずは、この「なーんにもないの充足感。」
ここにリラックスしてみればいいと思います。

その時にね。
また次!みたいな思いが出てきたのだとしたら、
「あーこれが錯覚の思い込みなんだー」
ってね。
観てあげたらいいんです。

今まではこの思い込みには必ず乗っからなきゃならない!って思い込んでいたんですよね。
習慣づけられてきてたんです。

観てあげることによって、単に観てあげることもできるんだー!
ってなことも発見できるんです。

必ずしも乗っからなくていいということが分かれば分かるほど、
僕らは思い込みから自由になります。

思いは単に思いでしかない、という当たり前の真実が目覚めるんです。

 

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