はーい。
おはようございます。
タクさんです。
恩寵を辞書で調べると、神からのめぐみ。絶対的存在からのめぐみ。
神からのめぐみいつくしみ。
とあります。
そんな恩寵、やってくるなら受け取りたいものですよねー。
でも受け取りたいと思えば思うほど、その恩寵はスルスルーとね、
離れていったりするもんです。
よくね。
悟りとか恩寵とか。
「そういうものはやってくるものなんですよね?」
「だから、待ってるしかないんですよね?」
ってなことを聞かれたりします。
待てと言われても、どう待てばいいのか?
本当に待ってればやってくるのか?
とっても疑問だ!
ってなわけですね。
でもこれね。
ちょっと違うんですよ。
多分待ってても来ないんです。
もしかしたらくるかもしれませんけどね。
待っちゃうのなら来ないんですよね。
だって、待つから。なんです。
もぅ。ちょっとぉ〜!
恩寵とは得るものじゃなく与えられるものだから、
取りに行ったらダメって聞いたんですけどぉ〜。
だから、まだか?まだか?と待ち続けてたんですけど〜。
待ってても来ないってどゆことー!
ってねぇ。
話が違うやーん!
って思われる方もおられるかもしれません。
じゃあ、何がちょっと違うのか?
といいますと、
この恩寵。
実はもう貰ってるんです。
すでにめぐみいつくしまれてるんです。
めぐみというのは、何かを与えられるということですよね。
そして、いつくしみというのは、愛し大事にされて可愛がられるということです。
これ、
もう貰ってるんですよねー。
何を貰っているのかといいますと、
全てです。
なので、これ以上のないものをもらっています。
そして、最大限の愛で愛されています。
これ以上のない慈しみです。
それをすでにもらっていますので、
待たなくてもいいし、取りに行かなくてもいいんです。
逆に、待つということ、取りに行こうとすること。
この行為によって、「まだもらってない!」という観念を握りしめていた。
というわけなんです。
なぜ全てを与えられているのに気づかないのか?
それは、僕らが恩寵以外の様々なものを得てきたからです。
ありとあらゆるものを得ることで、目の前の恩寵が見えなくなるんです。
得た物が落ちる時、
なーんにも持っていない、一見弱々しい自分に立ち戻る時。
そこにすでに恩寵があることを知るんです。
得た物が落ちること。
これが恩寵なんです。
つまり、恩寵とは無価値だということでもあります。
だって、得たものぜーんぶ落ちちゃうことなんですもんね。
価値という概念が落ちた時、ここで与え続けられていた恩寵に気づくんです。
何かを握りしめている時、
すでにここにある恩寵は、
とても退屈で、とてもなんてことはなく、とても無価値で、とても無意味のように見えます。
だからそこにあっても気に留められることもなかったんです。
そんな退屈でなんて事のない、無価値で無意味な中にリラックスをしてみると、
あなたは恩寵に包まれることになります。
あなたと全てを隔てるものは一切ないんです。
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