Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

恩寵を受け取るっ!

f:id:takuteto:20200127175533j:plain

はーい。
おはようございます。
タクさんです。

恩寵を辞書で調べると、神からのめぐみ。絶対的存在からのめぐみ。
神からのめぐみいつくしみ。
とあります。

そんな恩寵、やってくるなら受け取りたいものですよねー。
でも受け取りたいと思えば思うほど、その恩寵はスルスルーとね、
離れていったりするもんです。

よくね。
悟りとか恩寵とか。
「そういうものはやってくるものなんですよね?」
「だから、待ってるしかないんですよね?」

ってなことを聞かれたりします。

待てと言われても、どう待てばいいのか?
本当に待ってればやってくるのか?
とっても疑問だ!

ってなわけですね。

でもこれね。
ちょっと違うんですよ。
多分待ってても来ないんです。
もしかしたらくるかもしれませんけどね。
待っちゃうのなら来ないんですよね。
だって、待つから。なんです。

 

もぅ。ちょっとぉ〜!
恩寵とは得るものじゃなく与えられるものだから、
取りに行ったらダメって聞いたんですけどぉ〜。
だから、まだか?まだか?と待ち続けてたんですけど〜。

待ってても来ないってどゆことー!

ってねぇ。
話が違うやーん!
って思われる方もおられるかもしれません。

じゃあ、何がちょっと違うのか?
といいますと、
この恩寵。
実はもう貰ってるんです。
すでにめぐみいつくしまれてるんです。

めぐみというのは、何かを与えられるということですよね。
そして、いつくしみというのは、愛し大事にされて可愛がられるということです。

これ、
もう貰ってるんですよねー。

何を貰っているのかといいますと、
全てです。
なので、これ以上のないものをもらっています。
そして、最大限の愛で愛されています。
これ以上のない慈しみです。

それをすでにもらっていますので、
待たなくてもいいし、取りに行かなくてもいいんです。

逆に、待つということ、取りに行こうとすること。
この行為によって、「まだもらってない!」という観念を握りしめていた。
というわけなんです。

なぜ全てを与えられているのに気づかないのか?
それは、僕らが恩寵以外の様々なものを得てきたからです。

ありとあらゆるものを得ることで、目の前の恩寵が見えなくなるんです。

得た物が落ちる時、
なーんにも持っていない、一見弱々しい自分に立ち戻る時。
そこにすでに恩寵があることを知るんです。

得た物が落ちること。
これが恩寵なんです。

つまり、恩寵とは無価値だということでもあります。
だって、得たものぜーんぶ落ちちゃうことなんですもんね。

価値という概念が落ちた時、ここで与え続けられていた恩寵に気づくんです。

何かを握りしめている時、
すでにここにある恩寵は、
とても退屈で、とてもなんてことはなく、とても無価値で、とても無意味のように見えます。
だからそこにあっても気に留められることもなかったんです。

そんな退屈でなんて事のない、無価値で無意味な中にリラックスをしてみると、
あなたは恩寵に包まれることになります。

あなたと全てを隔てるものは一切ないんです。

 

▼僕のfacebookページはこちら。よかったら「いいね」してね!
コメントなどでつながりましょ〜!