Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

【悟りと虚無主義の話】ストーリーとは薄めたカルピスのようなもの

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ほーい。
おはようございます。
タクさんです。

みなさん。
カルピスは好きですか?

僕は好きです。
まー子供の頃は、お中元とかお歳暮とかで送られてくるカルピスを
とても楽しみにしていたものでした。

カルピスを全部飲み終わった後のコップに水を入れて、

「まだいけるで!まだまだ戦えるでっ!」

ってイキってた子供時代はしっかりと僕のブラック歴史ライブラリーに
収められております。

さてさて、
僕らが見ている現実は、思いによって演出されたストーリーである。
みたいなねー。
そんな話をよくしているわけですが、
このストーリーとは何か?
というと、
僕は
「真実を、かなり薄めたカルピスのようなものだ!」
ってね。
思うんですよね。

ま、
ナンノコッチャ???
って思われる方も多々おられるでしょうけど、
今日はその辺のことについて書いてみたいと思います。

 

まー、非二元とかこのブログの話。
特に「ワタシはいない」とか、
思いを手放すみたいな話ってね。

やっぱり、虚無主義のようにとらえられる場合があるんですよねー。

僕も昔は、
これって、単なる虚無主義じゃん。
って思ったもんです。

でも、いわゆる非二元スピーカー?
先生たちは、みんな口を揃えて、

「はっはっは!この話が虚無主義だって??」
「確かにそう聞こえるかもしれないけど、それは違うんだよ」
「はっはっは!」

って言うので。
そっかー。違うのかー。
って思うんですが、
でも、何がどう違うのか?についての説明は聞いたことがなかったんですよねー。

ま、その後、
「これは虚無主義なんかではない。むしろ逆じゃんっ!!」
っていう気づきが訪れたわけなんですけどね。

私もおらず、思いは全てストーリーなんだとしたら、
夢も希望も目標も、ぜーんぶ幻想だし、全てに意味がないんだとしたら、
すべては徒労になってしまうってこと??

っていう感じがね。
この話って虚無主義なんじゃないのん?
って思う根拠になってると思うんです。

では、なにが逆だったのかと言いますと、

むしろ僕らがストーリーだと思っていたもの。
このストーリーこそが、
奇跡であり愛であり完璧である「それ」をものすごーく薄めたものである
ということなんです。

全てである「それ」を思い込みと言葉という枠によって、
かなり限定的なものとして概念化していたんですよねー。

この枠が取り外される時、
まさに、自分も消え、身体も消え、何が残るのかというと、
全てが残るんです。

自分という概念も、身体という概念も、
はたまた、時間という概念も、

すべては、文字通り、概念でしかなく、
この概念によって紡がれるストーリーは、
元々ここにある「それ」をかなーり薄めたものになってしまっていたんです。

思いを手放す。
枠を取り去る。

っていうと、なにかが、手元から失われるような錯覚を感じるかもしれませんが、

もともと枠も概念も、思い込みのたぐいであり、
実体のあるものではないので、何も失うことはないんです。

むしろ、その枠によって、見逃していた全てが蘇ってくれるので、
虚無主義のように全てを失うと言った感じとは全く違うんです。

逆に全てを取り戻すんです。

なので、
「はっはっは!これは虚無主義とは全然違うんだよ〜」
っていうのは、その通りなんです。

 

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