Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

【悟り・目覚め】思考の世界からの目覚めの話

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ほーい。
おはようございます。
タクさんです。

目覚め。
それは、今まで僕らが思考を頼りにし、
自分というものをどう確立していくのか?

自分をどのようにコントロールし、
どのような思考体系や信念を採用して、どのような自分であればいいのか?

そういったことからの卒業と、この執着から自由になる入り口になるんですよねー。

つまり、全ては気づきであるというこの気づきへの信頼というか、
まぎれもない圧倒的な真実が、思考に頼りっきりだったことから脱却させるとともに、
思考の仕組みが見抜かれるんです。

思考の何が見抜かれるのか?といいますと、

「えー!もしかしてこいつ、ケンカ弱いんちゃうーん!」
的な感覚です。

僕らは常に思考を頼りに自分を作り上げることに精を出していたわけなんですが、
それほど思考には力がある。と信じているからこそ頼りにしていたんです。

なので、望まないことについては考えることさえためらうんです。

今、この世にはびこっている心理学とか成功哲学とかビジネス書のたぐいも、
大体は、この「思考」どうより良く扱うのか?
について書かれています。

それほど「思考」は強い!と思われているんですよねー。

そしてそう思っていることが「思考は強いんだ!」という現実を作っている。
ということでもあるんです。

でも実は思考に力(パワー)はありません。
これは便利機能であり、道具なんです。

ナイフ自体にモノを切る力が備わっているのではなく、
それを使う者によって初めてナイフが力を発揮するわけであって、
ナイフが勝手に切りかかってくることはありませんよねー。

思考に至っては、モノですら無いイメージ上でやり取りをする道具(ツール)ですので、
思考が殴りかかってくることなんてことはありえないんです。

強い強いと噂されていた番長は、強いと思われているがゆえにケンカをしたことがなく、
誰もその強さを知らなかったんだけど、実は、、、弱かった!
みたいなねー。

なんかそんな感じなんです。

 

思考というのは道具(ツール)ですのでね。
別にこの事を見抜いたからといって思考を使わなくなるということはありません。

一生黙って座り続ける仙人のようになるなんてことはないんです。
(したけりゃそうしてもいいですが…)

そして、「自分」という存在が思考を操っているということでもなく、
「自分」もまた思考の中の要素なんですよねー。

なので、思考をコントロールする自分というのもいてないんです。

気づきしかない。意識しかない。
みたいな言い方をしていますが、これもまた確実に「それ」を表現しているわけじゃなく、
あらゆる言葉も「思考」の際に使われるラベルのようなものなので、言葉を使った説明は完全に「それ」をいいあてることはできませんが、簡単に行っちゃうと、
世界は思考の中にあるんじゃないよねーっていう気づきなんです。

思考はあらゆるものを分離して整理し、ラベリングをしてストーリーを作り上げます。
そして目の前の世界もこのストーリーとして説明され、僕らは世界をストーリーとして見ちゃうってことなんですが、
このストーリーから目覚めると、自分のコントロールやストーリーのコントロールから解放されるんです。

ですが、思考のツールとしての役割はちゃんと残るんです。
このツールを使ってイノチを思いっきり遊ぶ!
これがイノチの本質だったんじゃーんってねー。
そんなふうに気づくわけですが、別に気づく前もそうやって遊んでたことも知るんですよね。

真剣に遊んでたからこそ、思考のルールを信じていたということでもあるんです。

時に、この思考のルールの見抜きは、その遊びを無味無臭で虚無的なものに変えてしまうんじゃないのん?
っていう心配の声も頂いたりするんですが、それは心配無用です。

もちろん、見抜きの途中でそういった思いがあったりする場合がありますが、その場合はまだ何かしらの思いを掴んでいるだけなんです。

全ては常に新しくそして奇跡的な完璧さで遊ぶことが出来ますし、「思考」の顔色を伺わなくてもよくなり、それを楽しく使うことも出来ますからね〜。

なーんにも失わないんです。
そもそも何も得ていなかったことを知るんです。
そして、全てはココに揃ってたんですよねん♪

 

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