Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

【二元と非二元】オモテとウラ、光と影という錯覚

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ほーい。
おはようございます。
タクさんです。

よくねぇ。
今ここしかないみたいなことをね。
僕も言っているわけなんですが、
これねー。
実はもっと厳密に表現しちゃうと、
今もここもないんですよね。

は?
どゆこと??

ってねー。

思われるかもしれませんが、

今ここしかない。
というのは、
今もここもない。
というのと同じことなんです。

もう一ついうと、
表には裏がある。
光には影がある。

これもね。
ないんです。錯覚です。

というわけで、
今日はこの辺の錯覚について書いてみよかなーって思います。

 

今ここしかないというのは、今もここもないということ。
表も裏もなくて、光も影もない。

かーっ!なんのこっちゃわからん!

ってねぇ。
なりますよねぇ。

でもね。
ホントそうなんですよ。

例えばね。

今とここ。
これね。今じゃない過去と未来。
そして、ここじゃないどこか。

それらがないと定義できないんです。

つまり「今」は「今以外」がないと定義できません。

なのでね。今とここしかない。というのは、そもそも、今も過去も未来も、
ここもあそこも。
そういった判断自体、ほんとーのところはないじゃんねぇ。

つまり今とか過去とか未来といったものも、こことあそこといったようなものも、分離の定義上あるとしているだけで、実際に分離があるわけでもなけりゃ定義は定義に過ぎない。

ってことなんですよね。

なので、今ここを探そうとしても見つからないんですよね。
だって、ないからねー。

過去や未来というものがない。ここ以外にどこもない。

そもそも、あるもないも無いんです。

表には裏があり、裏には表がある。
みたいなこともね。

これ、勝手な妄想なんです。
僕らが何かを掴み取るための定義にすぎないんです。

僕らが直接みているもの。
みているという経験。
実際にあるのはそれだけなんです。

表や裏というのは、みているものに対する説明でしかないんです。
この説明が実際に存在しているわけじゃありません。
実際にはみるという直接的な経験しか起こってないんです。

そしてこの経験は主体と客体、みているものとみられているもの。
といったような分離も無いんです。

この分離もまた説明に必要な材料に過ぎず、それらは全てイメージでしか無いんです。
そしてこのイメージは直接的な経験を表してはいないんですよね〜。

あるのはこの直接的な経験だけなんです。そしてこの直接的な経験こそが、
僕がよく書いている「ダイレクトさ」なんです。

あるのは「ダイレクトさ」だけなんですが、
僕らはこれを掴み取るために作られた説明文のほうを真実だと捉えちゃうというわけなんですよね。

光と影も同様で、実際に光と影は分かれていません。
僕らはこの陰影をみたうえで、説明文の中で光と影とに分けているに過ぎないんです。

この説明文というのが、定義付けであり、この定義付けは分離の法則によってなされるんです。
そして、この分離によって加工されたイメージ上の定義付けのほうを真実として扱ったときに「ダイレクトさ」を見失っている。
というわけなんですよね〜。

とはいっても見失っているだけであり、僕らはすでにダイレクトさそのものです。
問題と思われるようなあらゆることも、このダイレクトさの中の幻想のストーリーの中だけで演じられているだけなんですよねー。

そして、この演技が起こっていることさえも、すでに祝福されておるのです。

 

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