Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

すべての愛おしさと平安

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ひゃー!年末ですね!
例年通り、年末は結構バタバタしておるわけですが、
ほんと、なぜ年末はバタつくんでしょうね〜。

なんかねぇ。
今年中に懸案は片付けてしまってから年を越したい。
みたいなね。

新年はスッキリ!みたいなね。
そんな思い込みのせいなのと、急に寒くなってくることによる体調不良。
そして、忘年会がかさなることによって時間が取られることと暴飲暴食による体調不良。
やたらとセールがあったりするので、その買い物。
買ったものを楽しむことによって時間が取られることと寝不足による体調不良。

そんなことのせいなんじゃないでしょうか?

ま、体調不良って連呼しちゃいましたが、結局みんなまとまって休むのといろんな遊びが重なって忙しいってことなんじゃないかな〜。
なんてね。
思うわけです。

よくねぇ。コマーシャルなんかでも忙しいサラリーマン!みたいな表現で、
飲みに行ったり、カラオケに付き合ったり、みたいなシーンが出てきますもんねぇ。

でもそれって遊びやん!って話ですもんねぇ。

いやー日本人、遊ぶの下手すぎ!まとめすぎっ!て感じですよね。
海外では忘年会!みたいな風習はあまり無いっぽいですからね〜。

ま、僕はもう、仕事での忘年会は極力参加しない方向にしております。
飲み会も仕事のうちってアホらしいですもんね〜。

というわけで、おはようございます。
タクさんです。

 

さて、
あー、年末だるいわぁ~。
っていうか、仕事が重なるのがだるいわぁ〜。
ってね。

ここで書いてる時点で、僕はちゃんと僕の物語を遊ぶことができているわけです。

よくね。
「タクさんはもう自分という概念が消えちゃったの?」
「物語はきえちゃったの?」
という質問をもらうわけですが、
別に何かを失うわけじゃありませんので、物語を紡ぐ能力もちゃんと持っております。みなさんと一緒です。
この物語は物語なんだと知っているだけなんですが、これも実はみなさんだって知っているんですよねー。
知らないふりをしているだけなんです。

この物語は頭の中のイメージとして紡がれる。
つまり「真実だとしていた全ては物語である」
ということ。
このホントーの真実に飲み込まれることがいわゆる「体験」なんだと思うんですが、

そこで落ちるのは、物語の中に存在するリアル感と深刻さ。
これが落ちるんですよね。

深刻さは、物語を展開させる大きなエネルギーですので、何度も何度も頭の中でストーリーをリフレインさせます。

この力が失われるんです。

最初にこのリアル感が落ちたときは、そこで感じるリラックス感に気分も高揚したりするもんですが、それも落ち着いてくると、ほんと静かなもんです。

これが落ちるに従って、五感を通して感じる世界は、
五感とダイレクトに繋がって、ひとつになるんです。

もちろん最初っからひとつなんですけど、そのことを思い出すんです。
五感はそのダイレクトな体験をストーリー化する道具に使っていたんですよねー。

そして五感を通して感じた体験は、記憶や観念を通り、ストーリー化されたものを僕らはうけとっているわけです。

このストーリーだけを見る場合、このダイレクトな体験は見失われるわけですが、
このダイレクトさは失われるわけじゃなく、ストーリーの解釈に組み込まれるって感じなんです。

この組み込みの際につかわれる観念が「ワタシ」という観念なわけですが、
この「ワタシ」が死んでもいいんだということ。
この受容が起こるとき、この仕組が解体されるんです。

五感と体験とあらゆる観念。
これらを完全な一体感として感じられるとき、
圧倒的な「在る」がすでにここにあることを実感するわけです。

もう言葉で表現されるあらゆる解釈は、力の引力を失い、
そこに執着する力も失うわけですが、
同時に紡がれるストーリーの純粋なステキさ、愛おしさが芽吹くんです。

それは、
「あー、どんなことも愛おしいよね〜。」
って感じです。
これは好き嫌いを超えたもあのなんです。

すべてがストーリーだと知ることで、虚無感を感じる場合は、
それは、体験の解釈に捕まっちゃうからなんですが、
あらゆる解釈がオープンになると、解釈によって見逃していたダイレクトさがまた復活きます。

すると、意味や意義に依存しない生のストーリーが愛おしく表れてきてくれるんですよねー。

なので、「仕事がだるいわ〜っ」てぼやいているマインドちゃんもまた可愛くて健気なんです。

うまくいくことも楽しけりゃ、うまくいかないこともまた愛おしくて可愛いもんです。
愛おしくて可愛い。
これはどういう感じかというと、なんていうか平安と言えるかもしれません。

もうソレが全てです。
この平安が、ワクワクをうみ、ワクワクが衝動をつくり、衝動をより味わうために分離が起こっていたわけなんですよね〜。

つまり、
愛おしいからこそ僕らは、本気で思い悩み、本気で苦楽を感じているとも言えるんです。
そして思いがこうじて、ダイレクトさを単純に見失っているだけなんですよね。

「それ」そのものをしっかりと感じているからこそ、ストーリーを本気で感じているんです。
だれも一時も「それ」を失っていないんですよねん。

 

※今日は(今日も?)ややこしい文章になっちゃいましたが、
ガッツリとお話できればこのややこしさも解消されるかもしれません!
というわけで、よかったらコチラのタクさんセッションもご検討くださいませませ♪

takuteto.hatenablog.com