Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

全ては許されている??

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はい。
おはようございます。
タクさんです。

ま、こういう悟りとか非二元とか言われているものって、
言葉を超えたものでも在りますので、
それを言葉で伝えるのって、結構難しかったりもするもんです。

なので、よく伝わらんなぁ〜。とも思ったりします。

言葉を超えるというと、なんかとても高尚の事のように聞こえるかもしれませんが、
そういう感じでもなく、なんていうか言葉よりももっと身近なので、言葉で表現すると、この身近さが失われてしまう。
限定も境界もないのに、言葉によって限定されてしまう。

というジレンマがあるって感じです。

やっぱり、ちょっと「それ」について、複雑に考えすぎなところもあるんじゃないかなーって
思うんですよねん。

よく頂く質問は、
「私はいない」系の質問と、「全ては許されている」系の質問です。

全ては許されているという質問については、

「この虐殺事件も?あの痛ましいニュースも許されてるの???」
ってやつが多いですね〜。

もちろんね。
戦争も嫌だし、嫌な事件だって、そりゃー嫌ですもんね。
そして、憎いもんです。
戦争や事件を憎むのは当然ですし、
どちらかというと、その憎む思いも許されているというわけですね。

つめたい雨が降るのは嫌なものです。
でもその雨は、許されているから降っているわけですし、
そして、それを嫌がる気持ちもまた許されてるから起こってるわけです。

そもそも、許す許さないという判断が何処かでなされているわけじゃないんですけどね。

心だけは、これは存在してはいけない!と許さない思いを持つわけです。

 

つまり、
許される事と許されない事というのが存在しているわけではありません。

心だけが、特定のことを許せない!と思っているだけなんです。
この許せないは、防衛本能が刺激されて、それを避けようとする働きが起こっているということなんですよねー。

この心の判断として、許せないことを許せることに変換しなきゃならない。
ということじゃないんです。

許し。受け入れは、何かをすることじゃ無いんですよね。

表れている、起こっていること。
これは、誰かが許可をしているものではありません。

神が世界を作っているわけじゃなく、作られた世界の中に神という概念も含まれているんです。

起こっているからには、すでに許されていて、すでに受け入れられているんです。

そして、その中で防衛本能による反応も起こります。
怖いことからは距離を取りたがり、反発します。
これもまた、許されているからこそ起こっているんです。

何かを許せないのなら、その思いがあることがすでに許されているんです。
そのなかで、できることをやってもいいし、
思いを表現しても良いわけです。

また、心の働きは、自分がコントロールし、自分の意志で働かせているわけでもありません。

先に心の働きが起こり、そのあとで自分が起こしているという思いが出てきているんです。
自分が起こしているとしているので、この心がとても不快なのでどうにか静めたいという思いもまた、起こるんですが、これがコントロールできないから混乱しちゃったりもするわけです。

そもそもコントロールできないのは、自分がコントロールしてないという証明ですし、
自分が心をコントロールしているのなら、心の状態についての悩みは起こりようがないんですよね。

つまり「全ては許されている」「受け入れられている」ということについての気づきは、
許せないことを許すことではないんです。

あんなヒドイことがあることを認めろっていうの?
ということでもないんです。

そもそも、許しなさい!といって、「うん!わかった!」ってならないのは、
コントロールや行為をしている自分ていうものがそもそもいないからなんです。

なので、許せないという思いもまた、いさせてあげたら良いんです。
不快な思いもまた許されてるから起こってるんです。

いや!いさせてあげることもできないっ!

ってね。そんな思いが起こるのなら、それもそれで良いんです。

窓の外の空模様を観るようにね。
いろんな思い模様も楽しく観てあげたら良いんですよねん♪

観てあげるとすでに観ていたってね。
気づくわけですが、ややこしいのでこの辺にしておきます。

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