Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

【執着と手放し】気づきは個人的なものではない

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ほーい。
中華料理の中では、
牛肉の細切り炒めが好きなタクさんです。

牛肉とピーマンやらの野菜が細切り炒めになってるやつですが、
子供の頃家族で中華に行くと、これをどうにか独り占めにできないか?
と望んでいたのですが、
今まで独り占めにできた試しがありません。

まー、それにしても、
やっぱりお気に入りのものは自分のものにしたいっ!
ってね。
思うのが人間のさがなんでしょうねー。

ちなみに、動物って自分で狩った獲物を横取りされるなんてシーンを
よくテレビなんかで観たりしますが、

それは俺の権利だぞっ!って横取りを悪いもののように感じるのって、
もしかして人間だけなのかもしれませんねー。
ま、知りませんが。

はい。
というわけでおはようございます。

今日は、気づきは個人的なものではない。
と言うことについて書いてみたいと思います。

 

よくね。
気づきしかない。
とか、
経験しかない。
みたいなことをね。

ここでも書いているわけなんですが、
これは、なぜ「しかない」と言う書き方をしているのか?
と言いますと、

気づきも経験も個人的なものではないからなんです。

起こっている。
と言うことについても、
「ただ、起こっているだけ」なんです。

これもまた、起こっていることは個人的なものではないので、
「ただ」とか「だけ」という言葉を付け加えているんです。

僕らが、何かを掴み取る。
つまり、認識する際には、あらゆることの背後には、
主体者という概念を無意識に付け加えます。

だから、経験や気づきと言う言葉を聞いても、
ただ、観るだけで良いんです。
という「観る」と言うことについても、
その背後に主体者という概念をどうしても付け加えちゃうんですよねー。

そして、この主体者というのは「自分」ということになりますので、

自分が気づいた。
自分が経験をした。

という認識の仕方をするんです。

でね。
この認識なんですが、
これって、なんていうか経験そのものでも気づきそのものでもありませんよねぇ?

単にそれらを説明するための、後付けの説明書きみたいなものですもんね。

でも僕らはこの説明書きの部分を真実として受け止めちゃうんですよねー。
なので、それは真実じゃなくて、説明書きであるということを見逃してしまうんです。

この説明書きこそ、ストーリーであり、幻想なんです。

気づきは個人的なものではありません。
個人的なことは気づきの対象なんです。

気づきが先にあって、そのあとに自分が気づいているという概念を後付けしているわけであって、自分が先に主体としてあり、その自分が何かに気づいているということではないんですよねー。

この自分という概念がないと僕らは認識ができないので、認識するために、
仮の概念を作り上げているに過ぎないんです。

僕らは気づいていよう、観てみようとするときに、
ついついこの認識のほうに意識が向きがちなんですが、
認識は気づきそのものではないということなんです。

なので、あらゆる経験も気づきも持っておくことはできないということなんです。

認識とは概念と定義づけによってなされますが、
気づきは概念でもなく、どんな定義づけの中にもないので、
分けることもできない。つまり個別にはならないものなんですよねー。

僕らはどうしても個人的に持っておきたい、掴んでおきたいと頑張るんですが、
掴んだものは、全て幻想のストーリーに置き換わってしまうというわけです。

この個人的に掴んでおきたいという衝動との同一化が、執着という働きなんです。

執着は手放すものではなく、その働きがあるということが見抜かれるとき、
その力を失うんです。

するとその衝動すらも単に起こっては消えて行くものであり、
そこに行為はあっても、行為者としての誰かは存在していないということも見抜かれるんです。

 

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