Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

【悟り】不死の境地

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僕らは、お母さんの中から出てきてオギャー泣いた時、
この世に生まれたんだ!と定義されていますよね。

僕もそう聞いています。

でもオギャーと生まれたときに、
体が一瞬にして形成されたわけではなく、すでに体は形成されていたはずです。

つまり、オギャーと出てくる前だってすでに生きていたんです。
つまり、僕らが生まれたとされている日は、生まれたというよりは引っ越しした日。
に近いんです。

お母さんのお腹の中から、その外へと引っ越ししたわけですからねー。

 

あらゆるものは常に変化します。
これこそが「生」の表現であり、この表現から逃れているものはありません。
全ては「生」の内にあり、「生」の外というものはありません。

こんな変化の中、ある状態を定義づけると、この定義は始まりと終わりという概念を生み出します。

これは実際には存在するものではないのですが、あくまで概念として生じるんです。

オギャーと泣いた時。
これを生まれたと定義するのなら、その定義づけは死という概念も生じさせるというわけですねー。

全ての変化の中、ある状態を定義したなら、定義づけられた状態は必ず変化をするので、終わりがあるというわけです。

生まれるなら死があるし、出会うなら別れがある。
朝がきたなら、その朝はいずれ昼から夜へと変化し、
晴れた日もあれば、雨の日もあるというわけです。

そしてこの定義づけにより、始めと終わりが生じるということは、同時に時間の概念もまたここで生じているというわけです。

生と死も、そして時間もまた定義づけされた概念の中にしかないということなんですねー。

ちなみに、僕らは生まれた瞬間から「生まれた」という定義を持っているわけではありません。
生まれてから、しばらくたち、そういう定義を教えてもらったんです。
それを聞き、理解して掴み取った時、僕らの中に「生と死」が誕生したんです。

僕らが世界を掴み取ろうとする時、こうやって掴み取った定義づけを拠り所にします。

この拠り所というのはどういうものなのかというと、
例えば、
ロッククライミングなんかをする時、手や足がかけられるところがないと、始まりませんよねぇ。
ツルツルの壁をクライミングすることってできませんからね。

とっかかりに手をかけ、足をかけて登っていかなきゃ始まらないわけです。

このとっかかりに相当するもの。
それが定義づけとなります。

世界を掴み取るというのは、イメージ上で世界観を創り出す行為なんですが、
このとっかかりになるのが、あらゆる定義づけなんです。

そして、「自分」はこの世界に生きているんだ。
という結論に至るわけです。

なので、とっかかりとして採用された定義づけは、自分を生かすために必要な定義づけとなり、拠り所となっていくんです。

拠り所になった定義づけが揺らぐ時、「自分」はとても不安定さを感じ、不安を感じます。
これが僕らが苦しむ原因となっているわけです。

このような仕組みによって世界を掴み取るのは人としての習性ですので、定義づけは人の宿命と言えるかもしれません。
この定義づけの中に苦楽が生じ、僕らはこの苦楽を生きることが宿命づけられているとも言えるんです。

ですが、この「自分」も「宿命」も、そして宿命の中にある「苦楽」も概念であるということをすでに僕らは気づいているんです。

この気づきの立ち位置に立つ時、このカラクリ、この仕組みを知ることになります。
不死の境地とは、この気づきの立ち位置です。
この仕組みを知り、「そうだよねー」と受け入れている立ち位置なんです。

なんで「不死」なん?と言いますと、
それは別に、死なない頑丈な体を手に入れているということではなく、

こういった仕組みの中にしか「生死」の概念がないものですから、この概念から目覚めているという意味で、不死の境地と呼んでいるわけですねー。

仕組みを受け入れるというのは、誰かが受け入れているというわけではなく、元々知っていた「気づいている」を改めて思い出すだけなんですが、これは記憶の中から思い出すということではありません。

記憶を参照するまでもなく、最初からここに在るものなんです。

 

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よろしくお願いします。

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