Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

【非二元】僕らはそれから逃れることはできない。

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はい。
おはようございます。
タクさんです。

僕らは「それ」から逃れることはできない。
なんて言葉を聞いたことがあるかも知れません。

僕らは分離されていないし、悟りに境地があるのだとすれば、
もう既に僕らはそこにいる。
ということなんですけどねー。

ま、悟った人もいなければ、悟りの境地なんてものもないわけですが、
あえていうと、既にある原点。このことを知る(悟る)ことが悟りと言えるのかも知れません。

ただし、このことに知る(悟る)ということは、みんな最初っからそうなんじゃん!ということを知るということでもあるため、
「私が悟った!」とはならないんですよね。

そもそも原点には、私もありませんしね。

とはいってもそうとは思えない。
既にあるということはどうすれば知ることができるのー?
ってねぇ。
思ったりするかも知れませんが、
思う(思考)で、それを掴み取ることはできないどころか、
あれこれとあるいろんな思い(概念)で、元々あったそれを別のものとして演出しておるわけでしてねー。

この辺は、とっても素敵なジレンマとなっておるわけです。

 

かといって、思考や言葉が嘘というわけでもなく、
ありとあらゆる全ての思いや言葉の奥には、まったき真実があるわけでございまして、
言葉や思考は嘘だから排除しなければならないもの。
ということでもないんですよねー。

僕らは自分の目をみることはできませんよね。

気づきというのもまた自分の目のようなものでして、
この気づきは決して対象として掴み取ることはできないんです。

この気づきこそが本来の主体なわけですが、
僕らはあらゆるものを対象として掴み取り、
その対象の中に仮の主体と客体を作り上げているわけです。

僕らは自分だとしている主体は、対象の中にあり、仮の主体なんです。
この仮の主体に本来の主体を重ねて認識している。
みたいなことになっているんですよねー。

うん。
クソややこしいですよね。
僕も書いてて、クソややこしいことを書いているなぁ。
と自覚しております。

つまりね。
気づき。本来はこれしかないわけでして、これがあるからありとあらゆる主体と客体の関係性が成り立っていたりするわけなんですが、この成り立っているものはすべて対象となっているわけです。
この対象に気づいている。
いわゆる経験もね。気づきがあるからこそなんですよね。

そして、この気づきで映し出される対象はね。
すべて鏡のようなもので、この対象の奥には、気づきがこっちを見ているわけなんです。

これが、オープンシークレットの仕組みなんです。

書けば書くほど、ややこしくなっておるわけですが、もうこの辺はわかろうとするよりはわからんままに味わってもらえればいいと思います。

僕らはすでに「それ」です。
なので、もうあれこれと答えを掴み取ることは諦めて、もう今、ここにリラックスして在ればいいんです。

そして、あらゆる限界のような枠。
これら参照することなく、ただ、在ればいいんです。

明日、もうちょっと違った表現でチャレンジしてみます。

 

 

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