Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

受容と感謝

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ホイ
おはようございます。
タクさんです。

「手放しなさい。」
「受け入れなさい。」
「許しなっさーい。」

ってねぇ。
そう言われても、それができりゃ世話ないよ。
って話ですもんねー。

それが出来ないから、どうすりゃイイのか?
と聞いておるんや!

そして、聞いたなら、
「手放しなっさーい。」
「受け入れなっさーい。」
「許しなっさーい。」

と言われる。

これじゃあどうしたらいいのかわからんじゃないかっ!
と、憤慨される方もおられるかもしれませんねー。

と、いうわけで、
今日は、この辺のことについて書いてみたいと思います。

 

ちなみにね。
手放すことと、受け入れること。そして許すことも、意味としては同じことなんですが、
このねー、
手放せているもの、
受け入れられてること、
許していること。
ここには、ある共通点があるんです。

それがね、
「どうでも良い」
なんですよねー。

どうでもいいと思っている。
だから、受け入れられるし、手放せる
というわけなんてす。

逆に、僕らが
手放せなーい!
とか、
受け入れられなーい!
とか、言っているものは、
どうでもいいとは思えないものなんですよね。

どうでも良くないから、問題となっているんです。

そして僕らはこの問題を、どうでも良いことにするために色々と頑張っているというわけです。

と、同時に僕らは全てがどうでも良いことになる事を恐れてもいるので、
また、何かしらの問題さがしにも余念がなかったりもするんですけどね。

すべてがどうでもいい。となると、
とても虚無的に感じてしまったり、原動力を失ったような感覚を感じたりするわけです。
これも実は錯覚なんですけどね〜。

さて、
実はあらゆることは、全て、どうでも良いことです。
どうでも良いことというのは、すでに許されていることでもあります。
そして、どうでもいいということは、まさに完璧であるとも言えるし、
成功していること。とも言えるわけです。

もしこれが問題だと感じているのならば、
あなた自身が、何かしらのことを許していないということなんですよねー。

この、許していないことを許していくという作業は、それなりに難しくもあります。
徐々に、自分の中の観念を解きほぐしていく必要性がありますので、自分だけでやるのは至難です。

でもね、まあ、そういった問題については、
もうそれはそれで置いておいて、
その他のどうでも良いこと、見逃されていることは、たくさん見つけられると思うんですよねー。

まずは、そこに注目してみてあげたら良いんです。

受け入れられないことを、受け入れようどう頑張るのではなく、
すでに受け入れていること。

ここを再確認して、味わうんです。

こっちの方がはるかに簡単ですしね。

どうでもいいこと。
それはすでに成功していることであり、
感謝の賜物でもあります。

僕らはこのどうでもいいことには目もくれず、問題の方に意識を集中します。

そして、問題を凝視している間、その中心にあるのは「自分事」になっているんです。

つまり、とっても自己中心的になっていると言えるんです。

ここでの「自己」は満たされない自己になっていますので、
ここに意識を集中すればするほど、満たされない自分を味わうことになるんです。

反面、すでに目の前にある、どうでもいいことに感謝すること。

これは、すでに成功している自分を再確認することでもあります。

感謝は、すでに満たされている自分を思い出す呼び水になってくれるんです。

あらゆることはすべて「どうでもいいこと」であり、
それは許されているということであり、満たされているということでもあるんです。

それを思い出すために、感謝という呼び水を注いであげるんです。

すると、足りないと思っていた、すでに枯れていると思っていた、
自身の井戸から、再び満ち足りた自分が湧き出てくれます。

そして、満ち足りたあなた自身が、あとは娯楽を遊ぶつもりで、
やってみたいことを表現すれば良いんです。

 

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