Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

どうでもいいこと

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ほい。
おはようございます。
タクさんです。

「もう、どうでもいいよ〜」
とかね。

こういう言葉って、どうしても若干マイナスなイメージがあるじゃないですか。

奥さんや彼女から
「あなた、私のことどう思ってるの??」

と、聞かれて、

「うん!どうでもいいと思ってるよ!」
とは言えませんもんねぇ。

んなこと言おうものなら、
恐ろしいことが待ち受けていそうです。

でも「どうでもいい」というのは、マイナスな意味だけではありません。
どうでもいいことというのは、もう許されていることであり、
そのまんまで、もう素晴らしいということであり、
完璧だということでもあるんです。

 

僕ら人間は、どうしても、どうでもいいことには見向きもせず、
問題だと思うことばっかりをみてしまうクセがあります。

だから、目の前にある「どうでもいいこと」は見逃されているんです。

そして、問題だと思うこといは、「許せていない」という思いが隠れていたりします。

この「許せていない」が原動力となり、問題を自分の中に作り出しているわけですねー。

どうでもいいということ。それは、そのまんまでいいということです。
そして、目の前の世界で、見逃されていた、そのまんまでいいこと。
ここにも光を当ててあげるんです。
目を向けてあげるんですねー。

すると、あーこれでよかったんだー!っていうね。
見逃していた喜びが現れてきてくれるんです。

問題だ!と思っていることなんかよりも、何千倍もの、
これでいいんだ!が、目の前に隠されているんです。

問題に目を向けている間、僕らの体は緊張しこわばります。

そんな時、どうでもいいことも同様に目を向けてあげるということは、
癒しとなるんです。

癒しというのは、自分を許し労ってあげることなんですが、
すでに許されていることを発見することもまた癒しとなるんです。

春はあけぼの、夏は夜。
秋は夕暮れ、冬はつとめて。

この全てがこれでよしっ!ですもんねぇ。

僕らが問題としているものは、
架空の
「こうあるべき」を掴んでいる時、

「こうあるべき」ではないことが目に触れた途端に生じています

この「こうあるべき」はすべて幻想のようなものです。

つまり、全ては「どうでもいいこと」であり「これでいいこと」であり、
「許されている」ことなんです。

架空の幻想から生じている問題に目を向ける時間ばかりを費やすのは、
正直、無駄なことでもあります。

全てが許されている、この今に立脚し、そして自分が好きなことを表現すればいいんです。自分が好きなこと。この濃度をあげていくことで、僕らは幸せになっていきますし、
使命というものがあるのだとしたら、きっと好きなことを表現して幸せになること。
これが使命なんだと思うんです。

そして、その入り口が見逃している「どうでもいいこと」に目を向けることにあるんですねー。

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