Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

自分との対峙

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かごめかごめの歌が実は怖い。
みたいな話が大好きなタクさんです。

いやいやいや、
夜明けの晩に鶴と亀が滑った!って。。。

めっちゃ不吉ですやん!

意味は知りませんよ。俗説は聞いたことがありますけど。

でも、
後少しで夜明けだよ!っていう時に、鶴と亀。
つまりは、とっても縁起のいいとされている動物ですよね。
これが滑るって。

後少しのところで、ダメになったー!
的なことなんでしょ???

後ろの正面とかいう言い回しもなんか怖いし。

と、いうわけで、おはようございます。

まあ、怖い話が好きな割に、肝試し的なものは全然怖くなかったんですよねー。
子供の頃の肝試しでは、みんながやたら怖がってるのが滑稽でした。

皆さんは、どんな肝試しメモリーズをお持ちでしょうか?

さてさて、
僕らは結構自分の中に、みたくはない自分というものを隠し持っていたりするものです。
そして、この自分を隠すためにいろんなベールをかぶせたりもするんですよねー。

このベールのおかげで、うまく、みたくない自分が覆い隠されていると同時に、
ベールがあることが、嫌な自分がいる証明にもなってしまっていて、
なんとも消化不良な感覚も、同時に持っていたりもするんです。

 

この自分を隠すためのベールは、念には念をということで、
何重にも重なっていたりします。

そして、このベールのせいで、さらに自分自身が不自由さを感じていたりもするわけです。

このベールというのは、「〜であるべき」といった観念パターンになっていたりします。

そして、この不自由さから解放されるための方法論探しが、
またさらなる「〜であるべき」を増やしてしまう。

こんな悪循環があったりもするんですよね〜。

だったらもう、この観念もベールも剥がしてやればいい!
って話なんですが、

僕らって、隠し持っているその奥の自分と対峙するのは、
ものすごーく怖かったりもするんです。

この自分と対峙するのが嫌だから今まで頑張ってきたようなものだ!

みたいなことにもなっていますのでね。

でも、この自分。
なーんにも恐れることはありません。

だって、そもそも自分ですし、もっというとイメージですのでね。

殴りかかっても来れず、なんの力も持ってないんです。

ほら、肝試しの時の怖い思いっていうのは、自分が自分のイメージの中で演出してるようなものなんですよね。
これと似たようなものなんです。

そして、この自分に対して、あなたは何の責任も持っていないんです。

だから、何とかしなきゃいけないわけでもなく、そして怖がらなくてもいいものなんですよねー。

そして、自分に対する足りないという思い。

この足りないパーツは、
どこか外にあるのではなく、この覆い隠していた「自分」こそがこのパーツなんです。

探し物は足元にある。

ということですねー。

つまりはなんです。

覆い隠していた自分を優しく迎えてあげることで、
あなたは足りないパーツを埋めることができます。

優しく迎え入れてあげること。
それは、自分が自分を受け入れるということなんです。

自分で自分の一部を、自分の中に隠し、そして、足りないパーツを外に探し求める。

みたいなね。
そんな独り相撲を演じていたんです。

あなたはすでに、完璧に許されています。
それは、あなた自身が、自分を許してあげることで、知ることができるんです。

 

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