Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

帰依、明け渡し、諦め。

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ほいっ!
おはようございます。
タクさんです。

いやー。

帰依って言葉があるじゃないですか。
調べてみるとですねー。

(仏や神など)すぐれたものを頼みとして、その力にすがること。

というふうにあります。

仏教だと、三宝を拠り所にするということ。

ということなんだそうです。

三宝とは仏法僧ということになります。

仏は、悟りを開いたブッダ。
法は、仏教の教え。
僧は、日本で言うところのお坊さん。

ということで、仏教に信心なさいよー。
という風なことなんだそうですねー。

ふーむ。。。
とはいえね。

お釈迦さんの教え。つまり仏教の教えってねー。
なんていうか、本来の自分を生きなさいよー。
という教えなんだと思うんですよ。

そこを元に、帰依という言葉の意味を組み立て直してみると、
帰依という言葉もちょっと違った観え方として現れてきてくれるような。
そんな気がする今日この頃です。

 

さて、
では、本来の自分とはなんぞや?
って話なんですけどねー。

それは、
本来の自分というのは、本来じゃないものをのぞいた後に残るものということになりますよね。

つまりは、なんの色付けもされていない自分です。

生まれたまんまの自分とも言えるかもしれませんね。

僕らは、生まれたまんまの自分を失ってはいません。
実はちゃんとずっと在るんですよね。
ただ、そこに何層ものイメージ上の色付けを付け加えているだけなんです。

そしてね。
いつしか、付け加えられた色付け。
いわゆる観念なんですが、
ここに依存する。

つまりは、付け加えられたものを拠り所にしちゃってやしませんか?

ということなんです。

例えば、
良い大学に入ったほうが良い!
高い地位の方がいい!
お金持ちの方がいい!

と言ったような、観念を拠り所にしちゃうと、
僕らは途端にこの観念の奴隷になってしまいます。

すると、お金を失うのが怖くなったり、地位を失うのが怖くなったりするんですが、
そうなると、いつしか自分は、イメージ(観念)の虜(とりこ)になってしまい、その観念に乗っ取られてしまうわけです。

虜になるとどうなるかというと、そこで苦に苛まれるんですねー。

自分が観念に取り込まれるということは、観念が自分になってしまうんです。

つまりは、本来じゃない自分になるとも言えるかもしれませんね。

(本来も嘘もホントはないのですがそこはひとまず置いておきます)

そして、この観念を取り除くというのは、自分を取り除いてしまうということだ。
といったようなねー。

そういう錯覚の恐怖を感じたりもするんです。

帰依は、本来の自分に戻ろうねー。という教えを拠り所にする。
これは言い換えると、

今まで拠り所にしていたこと。つまり観念ですね。
これを明け渡しましょう。

ということになります。

つまりは、拠り所(観念)が「自分」になってしまっているので、
自分(観念)を明け渡しましょう。

ということになるわけですが、
自分を明け渡すってねぇ。

なんか、ちょっと怖いじゃないですか。

でも、自分を自分に帰してあげる。自分に明け渡す。
というのなら、
行ってこいなので、ちょっとは楽に感じますよねー。

もらうのも自分ですしね。

それでいいんです。

つまりね。
帰依というのは、自分にするものなんです。

僕らが知らないうちに掴み取った観念。
この観念に自分を閉じ込めてたんですよね。

その観念を自分に明け渡してあげることによって、
自分を解き放ってあげるんです。

自分以外の何かを拠り所にしたりしなくていいんです。
したけりゃしてもいいですけどね。

でも、拠り所になるものというのは全て条件です。
条件というのは観念です。

条件や観念を拠り所にすることで、自分をそこに閉じ込めていたんですよねー。

それを明け渡してあげる。

明け渡すというのは、諦めるというのと同じような感じです。
誰かに10万円を明け渡すのは、自分が10万円を使うのを諦めるってことですものねー。
まあこれは、なんか例えが変かもしれませんが、

明け渡すのは自分に対してなんです。
すると自分は枠から解き放たれるんです。

解き放たれた時、その枠は、イメージの枠でしかなく、実際にある枠ではなかったことが明らかになるんです。

明け渡し、諦める。

この、明け渡しと諦めは、明らかになることで成就するんですよねん。

 

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