Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

欲望と恐れと誤った概念からあなたを解き放つもの

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すべての伝統的基準を捨て去りなさい。それらは偽善者たちにまかせておくがいい。欲望と恐れと誤った概念からあなたを解き放つものだけが正しいのだ。あなたが罪や徳に煩わされている間は、安心が訪れることはないだろう。(マハラジ)

 

はい。

ということで、おはようございます。

タクさんです。
いやー、マハラジさん。手厳しいですね。
このマハラジさん、ちょっと面白い人で、
伝統儀式を思いっきり否定しているくせに、
ある日、ラマナマハリシ(マハラジさんとはまた別の聖者みたいな人)のゆかりの人物が訪ねてきた時に、
彼の足元にひれ伏す儀式的な挨拶をして、弟子に

「あなたいつも、そういうの否定してるのにどないしましたん?」

って突っ込まれたりしています。

その時は、これは儀式ではなくラマナマハリシへの尊敬の表明なんだ!
みたいなことをおっしゃっています。

 

まー、あまり儀式的なことにこだわりだすと、
どうしても偽善的になってしまいがちなんですよね。

私こそが、偉大な行為をしている。
私はその辺の一般人と違って進んでいる。

みたいなね。

まあ、それはそれで、気持ちいいのならそれでいいんですが、
これは、依存的な状態とも言えるんですよね。

僕らは、分離をさせないと何も理解できないのと同時に、
分離させた途端に、正誤の観念を付け加えてしまいます。

そして、正と信じるものを掴み取ることで、より高みへと登っていく。
といったような、ストーリー設定を掴み取りがちなんです。

そして、この信じた正しさに依存していってしまうんですよねー。

正しさとは善であり、この善が強まるに従って、悪も色濃くなります。

元々はありもしない、作られた「善」への依存が強まるに従って、
「悪」というものも生み出してしまう。
みたいなねー。

なので、偽善は、本質を見失わせてしまうんですよね。

瞑想は、これらの思い込みをちゃんと思い込みとして扱うための準備運動のようなものです。
ですが、この瞑想にも伝統儀式を盛り込んだりしちゃうと、
瞑想が瞑想ではなくなっちゃりもするわけです。

そして、この伝統的基準、神だの聖者だの悟った人の言葉だの、
そういった人の言葉どおりになることを望む欲望や、
そこからかけ離れることへの恐れに取り込まれてしまうのなら、
本末転倒も甚だしいっていうことなんですねー。

「欲望と恐れと誤った概念からあなたを解き放つもの」

これはまさに、「知らんがな!」の許しです。

お気楽さの中にこそ正しさがあるんだよーってね。
マハラジさんもおっしゃってるんだと思います。

 

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