Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

思考と言葉

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はーい。

おはようございます。
ちょっとバタバタとしておりまして、
記事ストックがなくなり、やや更新時間が乱れがちなタクさんです。

今日は思考と言葉というテーマについて書いてみたいと思います。

 

思考と言葉。

この二つはねー。

切っても切り離せない関係にあります。

言葉と思考は二つで一つの関係だったりするんですよね。

僕らは、言葉を使わないとうまく思考できませんし、思考のない言葉は単なる意味のない音になってしまいます。

僕らが高度に思考することができるのは、高度な言葉を使いこなせるからなんです。

そして、言葉は紡がれます。
紡がれた言葉は物語となるわけです。

思考は、頭の中で作られる最も身近な物語なんです。

僕らの人生、僕らの記憶。
記憶から予測される未来も、
信念も、
これら全てが、言葉で紡がれた物語。
つまりストーリーだというわけです。

どんなルールも、どんな権威も、
ストーリーです。

そして、このストーリーこそが現実なんです。

ストーリーは何本も並行して生じてきます。

このストーリーの深刻さが強いほど、現実として扱い、深刻さの弱いストーリーは、ストーリーの中で、物語扱いされたりしているわけですが、
深刻さの強弱の差に価値の差があるわけではありません。
そもそも、価値というのもストーリーの中にしか存在せず、親和性や深刻度、好き嫌いや単なる性質で、価値のあるなしを勝手に決めつけているだけなんです。

ストーリーは主役と脇役、そして舞台設定がないと成り立ちません。

なので、ストーリーが展開する場合、自然に、主役である自分と、自分以外。
そして舞台設定が自動生成されるんです。

つまり、「自分」という観念も、このストーリーの中にしか存在しない観念なんです。

ちなみに、僕は猫を飼っているのですが、
猫じゃらしのようなおもちゃを猫の前でフリフリすると、猫はそれを掴もうとする衝動を抑えられないようです。
必ず、反応しちゃうっぽいです。

人も同様に、
例えば、
「今日の朝ごはん何食べたの?」
って質問をされたとしたら、瞬時にその答えを探ろうと反応します。
問いには反応してしまう。
そんな習性を持っているんです。

しかも、人の想像力はとても優れていますので、次々と問いを生成します。
そして、問いがあるからには、その答えを探そうとする反応も尽きないわけです。

この働きを止めようとしても、
これは本能的な働きなので、止まることもあれば働くことも起こります。

これを完全に止めようとする。
止まった状態を保つということじゃないんです。

単にこの働きを働きだと見抜くこと。
自分が見抜くというよりは、自然に見抜かれ、見抜かれることで、思考と言葉のストーリーによる深刻さが溶けていくこと。
それが、思考と言葉のストーリーからの目覚めなんです。

赤ん坊の頃、子供の頃はストーリーにそれほどの深刻さを掴んではいなかったのではないでしょうか?

ストーリーがストーリーとして見抜かれ、ストーリーは、働きとして単に起こっているということが見抜かれることによって、持っている深刻さも、自然となんにもなさへと溶け込んでいくのです。

 

 

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