Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

私はいない、時間は存在しない その1

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おはようございます。

中2のころに、
母親の呼び方を、
「お母さん」から「おかん!」に変えた
タクさんです。

ちなみに、学校の先生のことを
お父さん、お母さんと呼び間違えたのは、
三回ほどかと記憶しております。

皆さんは、何回くらい呼び間違えて頬を赤らめたでしょうか?

今日は「私はいない」「時間は存在しない」
について改めて書いてみよっかなーって思います。

やっぱり「私はいない」がよくわからない。
って方が多いっぽいんですよねー。

あと、「時間はない」っていうのもね。

これねぇ。

一見ファンタジックに感じるかもしれませんが、
別に「私」という次元を超えていくとか、
時間の次元を超えていくとか、アセンションだとか。
そんな話じゃないですからねー。

どうも僕ら人間っていうのは、
難しい話、特別な存在。
そういうのに価値を感じがちで、
なんでもないものは眼中に入らなかったりしますからねー。

価値や特別さ、次元。
これらはぜ~んぶ、人間だけが採用している概念に過ぎません。
つまりは幻想です。

僕らは、上手くいっていることは眼中に入らず、
問題だけにフォーカスしちゃったりするものですし、
同様に、
ホントの真実。つまり「なんでもない」というものはスルーし、
演出された価値の方に注目しちゃったりするわけです。

というわけで、
今日は、
「私はいない」と「時間はない」
について書いてみたいと思います。

 

まあ、このテーマについては何度も取り上げてはいるんですけどねー。
これからも取り上げていきたいと思っております。

このへんのことが見抜けてくると、世界のみえかたがガラッと変わって来ますのでねー。
というよりは、そんなに限定して世界を捉えていたのか!!
ということに気づきます。

では、
まず「時間はない
ということなんですけどね。

まあ、普通は僕らって、
時間というものが流れている。
と感じていますよね。

時間が流れているから、朝から昼になるし、
昨日飲みすぎた胃もたれを感じているし、、、。

ってねぇ。
思ってるかと思います。

時計は時間を刻むのも、そりゃ時間が流れてるからじゃん!!
ってね。

では、もし時間なんてものが流れていないのだとしたら?
どうなるでしょうか??

そりゃー。時計は止まっちゃうだろうし、
昨日の胃もたれなんてなくなるはずだし、
あの時の思い出もなくなっちゃうだろうし、

そもそも、あらゆる動きが止まっちゃうんじゃないの??

って思いますか?

もしね。
そう思ったのだとしたら、
かなり時間の概念に騙されちゃってます。

単なるルールを現実視しすぎていると言っても良いかもしれません。

だってね。
時計は何を動力に動いているのか?
ってねー。
確かめてみたらわかりますよね。

ゼンマイだったり、電池だったり。

これらを動力として動いているわけです。

別に、時間というエネルギーを元に動いているわけじゃありませんよね。

体の感覚も、
目の前にあるあらゆる動きも、
記憶という機能も、

どれも時間というエネルギーに依存していません。

そもそも、時間にエネルギーなんてありませんからねー。

じゃあ時間って何?っていうと、もうこれは単なる単位のようなものとしか言いようがありません。

共通のルールみたいなものですねー。

実際にあるものではなく、僕らが何かを共有する時の共通のルールみたいなものです。

僕ら人間は幻想を共有する生き物です。
なので、この幻想を共有する際のルールの一つ。
それが時間という単位だというわけなんです。

つまり、時間という実態のあるなにかは存在してないんです。

自然に移ろい変化をしているもの。
これに僕らは時間の流れというイメージを付けて見ているんです。

時間があるから変化と移ろいがあるわけではなく、
ただ変化と移ろいがあるだけなんです。

僕らはそこに、時間の流れという概念を重ねてみてるんですよねー。

色眼鏡を通して世界を見ているという感じです。
それが色付けであり、空(くう)を色(しき)となしているということなんです。

ちょっと長くなってきましたので続きまーす。

 

 

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