Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

私という執着

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ほい
おはようございます。
タクさんです。

まあ僕はよく、
いろんな思いとかね、起こるでしょうけど、
今だけ、置いておけばいいですよー。

みたいなことをね。
書いているわけですが、

「置いておくというのが難しいねーん。」
ってね。
メッセージ欄の方でもいただいておりまして、、、。

今日はこの辺のことについて書いてみたいと思います。

 

執着ってね。
まあ簡単にいうと、物事に固執すること。
固執することによってとらわれること。

みたいな意味なんですけどね。

普段僕らってこの執着という働きに無意識なんです。

なので、執着があることに気づけないんです。

この執着ちゃんは、考えとかを置いておくことで現れてきます。
なんていうか、言葉にはならない衝動のようなものです。

この衝動が、何かに対する固執を生じさせ、
この働きが連続するためにとらわれるという現象が演出されているというわけです。

ただ、ややこしいのは!

「よーし!執着がいけないんだね。」
「オッケー!じゃあ、執着しないようにしてみるよ!」

ってね。

爽やかな関東弁で宣言してみたところで、
この「執着しないようにする!」というのもまた執着であり、
この執着をいけないものととすることもまた執着となり、
キリがないんです。

とらわれるというのは、なんでもないものを「何か」として扱う。
ということですのでねー。

やろうとすることはもう、執着から逃れられないんですよねー。

なので、置いておくしかないわけです。

ただ、
置いておくをやろうとすると、
これまた、執着のサイクルに入り込んじゃうわけです。

ココがどうも難しいという所以になっているんです。

つまりは、
自分がやろうとしたら難しいっていうか、むりなんです。

なので、ここは逆に、
やってることを観てみるという感じを意識してみたら良いと思います。

結局ね。
「自分が何かをやっている」
とか、
「自分が何かをやめる」
ということでもないんですよね。

そもそも、
この「自分」。

この自分じたいが
「やってること」なんです。

「自分」=「やっていること」

なんですねー。

ぼくらは、ついつい不動の自分がいると思ってたりするわけですが、
じつはそうじゃなくて、
自分をやっているんです。

そして、やっている間だけ、自分が存在しているように感じているわけです。

なにもしなきゃ、自分は存在していません。

歩くのはするものですよね。
しなきゃ歩きは始まりませんもんねぇ。

同様に、自分もするものなんです。
しなきゃ、自分はないんです。

それが働きだということに無意識になってるんですよねー。

なのでね。
気づかずにやっていること。
ここに気づきが置いておくなんです。

ちなみに、
置いておく状態を保つ必要はありませんし、
置いておいたリラックス状態を保つことが正解だというわけではありません。

ただ、置いておくことによって、
「ははーん。私というのは働きだったんだ。」
「っていうかいろんな働きに「私」と名付けてたんだ。」
という気づきがあるだけなんです。

この気づきが、愛とか安堵とか悟りだというわけですが、
言い換えれば、もともとあった当たり前ともいうことができます。

見逃していた当たり前。
って感じですかねー。

なので、
気づいたとしても、
ガンガン私をやればいいし、エゴを表現すれば良いんです。

っていうか、誰もコントロールしてないから、もうここで、
私もエゴも分離すらないんですけどね。

これが単に起こっていることだと、
誰でもないものが単に気づくことで、
僕らは「私」から解放されるんです。

もともとなかった「私」からの解放です。

それは、「私」はもともとなかったことの気づきとも言えますねー。

 

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