Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

イヤな自分、ダメな自分、情けない自分(続きの続き)

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はーい。
おはようございます。
タクさんです。

さてさて、
自分の中のイヤな自分。

この自分を隠すことに費やしてしまうことに多くの労力を使いすぎてしまうこともあったりするよねー。
みたいなお話をおとといから続けてきました。

なので、今日はそんな自分を解放してあげたいと思います。

そして、そんな自分を解放してあげることでねー。
ワクワクがダイレクトで現れて来るようになります。

あれれ?出ないぞ!ってなる方もおられるかもしれませんが、
それならそれでほっておいたら勝手に出てきます。

今日はその辺について書いていきたいと思っておりまする!

 

さてさて、
心理学的なアプローチや、自己啓発的なもの。
そして、ビジネス書やビジネス的なセミナーに
癒しやスピリチュアル。

これらは、すべて自分が何者かになるためのことについて書かれているものがほとんどですよねー。

これってね。
やっぱりまずは、足りない自分を埋めていくという方向性になってるんです。

そしてこの方向性は分離という概念によって発展しちゃうんですよね。

何が正しくて、何が間違いなのか?
何がより自然で、何が不自然なのか?
何があって、何がないのか?

みたいなものです。
ここに答えはないんですよねー。

こういう非二元的な話も、どうしたらそういう状態になれるんだろう??
といった思いも湧いて来ると思うんですけどね。

でも、これって状態じゃないですし、
今何かが起こってるなら、もうそれが起こってるっていうことですのでねー。
それで良いわけなんです。

まあこれも、
何が起こっていて、何が起こってないのか?というのもなければ、
何が良くて、何が悪いのか?
なんてこともないので、言葉の限界になったりするわけですが、

ですが、もしやれることがあるとしたら、それはそんな自分を観てあげることだけなんですよね。

そして、観るだけでそれは解放されていくんです。

僕らは、自分が隠している自分をみないためにいろんな手を講じてきました。
そしてもうそれが、当たり前のことのようになりすぎちゃってるんですよね。

なのでかなり巧妙に隠されているんです。

なので、この巧妙さをかいくぐって観てあげなきゃならないんですよねー。
とにかく、自分の一番弱い部分を観てあげるかんじなので、時にツラく感じるかもしれません。
でも、この弱さというのが、単なる錯覚だと見抜かれることによって、世界は変わってくるんです。
自分もそうですが他人も、そして世界自体も、この弱さを通して観てたことが明らかになっていき、このフィルターが錯覚だと明らかになっていくに従って、自分の弱さは許されていくんです。

観るっていうのは、なんていうか何もしないというのに近いかもしれません。

観ることによって問題を解決するというのではなく、放置するのに近い感じです。

ただ観るだけ。ですのでねー。

観てあげることで、その思いは役割を終えます。

僕らは観ないことによって恐怖を倍増させて、観ないための努力を繰り返していたという側面があるんですよね。

「それでええやん♪」って単に観てあげる。

それは、許しです。

逆にいうと、許してないこと。その裁きは自分に向けられていたんですよね。
そして、許されようと足掻いていたんです。

自分の奥底にいる「許せない自分」。
そのさらに奥に、本来の自分があると書きましたが、

それは光り輝く宝石がその中に安置してあるというわけではありません。

ぶっちゃけ、何にもないんですけどね。

ただ、許せない自分が生み出す様々なフィルターだけがあったんです。
目の前のありのままをそのフィルターを通して観ていただけっていうことなんですよね。

フィルターを通した世界を観るのではなく、直接そのフィルターを観てあげることで、
このフィルターは、役割を終えてくれるんです。

そして、「許せなかった自分」を演出しているフィルターを観てあげることで、この自分は許されるんです。
許されることで、役割がおわるんですよね。

許す誰かがいるわけじゃありませんので、許そうとしないでくださいねー。
できることはありませんので。

そして、完璧にやろうとしなくても構いません。
そもそもすでに完璧ですのでねー。

この話はねー、
イヤなことが起こらない自分になるという話でもなく、
良いことばかりを選択できる自分になるという話でもないんです。

良いとか悪いとか、
あるとかないとか、
何が自然で、何が不自然とか、
何が正しくて、何が間違いなのかや、
起こっているのか、起こってないのか?

それらが、イメージ内の分離の概念だと知るという話なんです。

この知るは、知識ではありません。
だって知識は、分離の概念なしでは存在できないものですのでねー。
なので、これを知って行動を改めるという話でもありません。

知識ではない「知」なんです。
これが、智慧なんです。

 

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