Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

因果の先にあるもの

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はーい。
おはようございます。

タクさんです。

今日はねー。
原因と結果を掘り下げると、因果は無いに落ち着いてくる。
って話について書いてみたいと思いまーす。

原因と結果という概念。これは因果の法則とおんなじことなんですけどね。

ここを注意ぶかーく見ていくと、因果ってないジャーン。

ってなるというおはなしですねー。

さて、どんなことにも、そうなるには原因がある。ってねぇ。
思いますよね。
だから僕らは今のこの行為にも、先の結果を見据えるわけです。
そして、より良い結果に導くために、何をなすべきか?と迷ったりもするわけですもんねー。

 

でね。この原因なんですが、
原因にも原因があるということになりますよねぇ。

だって、その原因はポッと生まれたものじゃないですからねー。

そしてこれをずーっと突き詰めていくとね。
無限につながっていくんですよね。
原因には原因がありその原因にも原因がある。
ってねー。

するとあらゆる全てのことは、原因と結果。
つまりは因果で輪っかのようにつながっているということになります。
雨が振り川となり、川は海へと流れ、海からは大量の水が雲へと姿を変え、
雲は雨を降らしていく。

みたいにねー。
そうなってきますとね??
雨が降った原因を探ると、もう雨が降っていることが原因であり結果でもある。
ってなことになるわけです。

なーんていうか、
因果の網目は全てにくまなく張り巡らされていて、
この全体的な因果の網目の中で、
個別の因果を取り出すと言うことは、
ナンセンスだと言うことに落ち着いて来るわけです。

雨の原因は結局のところ雨に戻って来る。
みたいなね。

それって、ナンセンスですもんねぇ。

そして、どんなことにも原因があるということは、同時に
どんなものも、個としては存在し得ないということになります。

個とみなしているあらゆるものにも、その原因があり、その原因にもまた、
原因がある。

これらは全て繋がっている。ということになりますからねー。

つまり、個として存在し得ないということは、
個別の因果を取り上げてみたとしても、
それは正確なものではなく、ほんの部分的な解釈にすぎない。
ということになるわけです。

つまり、全てはつながり、どれも個としては存在してない。

というわけなんですよね。

このことがねー、確かめられれば確かめられるほど、
個別の原因と結果に対するこだわりの必要性もまた消滅していくんです。

個別の因果が消滅すると、もう因果へのこだわりも消え失せます。
残るのは、全体だけだということになり、この全体は一定ではなく、
波のようにすべてを表現し続けているエネルギーなんだということになってくるんです。
因果というものは、そのエネルギー。つまり表現に、解釈を加えたものに過ぎないわけなんですよね。

そして、このエネルギーこそ、イノチであり、イノチもまた個別のものではないんです。

僕らの苦や迷いは、すべて個という概念に由来しています。
個がないと、苦や迷いは生じ得ないですし、
個という土壌があってこそ、苦や迷いで遊べる。
ということでもあります。

だったら、楽しく遊べばいいですし、本来は個は存在してませんので、
この苦や迷いも個という土壌から生じたイメージの中にしかないってことにもなるわけですね〜。

にょほほほほーん。

 

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