おはよーさん。
おはよーさん。
関西出身でありながら、
東京では華麗に標準語を華麗に操るタクさんです。
バイリンガルです。
はっきりいって。
関西弁のほうでは、兵庫県訛りや京都訛り。
大阪訛りも操れます。
ま、僕、親が転勤族だったので、
子供の頃は、東京や兵庫や京都なんかを転々としたんですよねー。
だから、出身はどこ?と言われると、ちょっと言葉が詰まるんですが、
両親は京都だし、僕も青年時代は京都が長かったので、京都だということにしております。
ま、出身地のことはどうでもいいんですが、
言葉の雰囲気ってね。
結構気持ちを左右させるものってあると思うんですよ。
例えばね。
「ああ、、、大変だ。大変なことが起こってしまった・・・」
てねー。言うよりは、
「はぁぁぅぅ、えらいこっちゃ!こりゃーえらいこっちゃで!!」
ってねー。言った方が遊び感覚が強い感じがするんですよねー。
文字面的にね。
そう言う意味で、関西弁って気楽な雰囲気を表現するには、
ええ表現やなぁ〜。
なんて思うわけです。
ちなみに、ゲーム「龍が如く」の真島さんの関西弁は、
標準語イントネーションが強いなぁ。。。と個人的にはおもとります。
さてさて、
こういう話にたびたびでてくる「至福」と言う言葉。
この至福ということについて今日は書いてみたいと思います。
ここで言う至福とはどういう状態なのか?
ってねー。
気になっちゃいますよねぇ。
でも、これって状態じゃないんですよね。
僕らって、常になんらかの状態にあるってねぇ。
思っちゃうじゃないですか。
でも、状態に入る以前はニュートラルなんです。
そして、このニュートラルさは保たれたまま、僕らはいろんな状態を遊ぶんです。
つまり、どんな状態にあろうと、このニュートラルさは失われてないんです。
そして、この至福というのは、このニュートラルさを表しているんですよねー。
では、ニュートラルさとはなんやねん?
と言いますと、それはなーんにも手にしてない。
何にも手に入れてない。
ということなんです。
そして、状態とは、何かを手にしているという錯覚なんです。
僕らはなーんにも手に入れてはいないんですが、
何かを掴み取っていると言う錯覚をしているんですよねん。
ほんとは何も手にしていないというニュートラルさの中、
手に入れたと言う錯覚を状態として遊んでいる。
というわけです。
そして至福とは、何も持っていないことなんです。
ああ、ほんとーに、なーんにも持ってなかったし、持ったことさえなかったんだ。
ということを実感するとき、僕らはなんとも言えない安堵と至福と自由に包まれるんですよねー。
そして、気づくんです。
何かを手に入れたいと望み、手に入れた時の瞬間の安堵感。
これは、手に入れたものによってもたらされた安堵感ではなく、
「欲しい!」と言う思いが消えたことによる安堵感だったんだー。
ってねー。
僕等はすでに至福なんです。
なぜなら、何も手に入れたことはなく、
手に入れたという思いはまさに幻想であり、
手に入れたこともなければ、何も持ったことさえないんですもんねー。
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