Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

注意深く観る

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ほーい。
おはようございます。
柿ピーの食べ過ぎで胃もたれしているタクさんです。

みなさま、どんなお菓子ライフをお過ごしでしょうか??

いやぁー。
お菓子ってねぇ。
もう子供の頃は、とっても素晴らしい響きでしたよね。

僕は今でもお菓子が好きですが、
ちょっと、、、。
最近、、、、。

お菓子がちょっともたれるようになってしまいました。。。

あんなに、キラキラと輝いていた、
よっちゃんイカに、キャベツ太郎も
いつしか、その輝きも失われ、、、。

でも、ポテチやアイスクリームは好きなので、
まだまだワシのお菓子ライフは終わらんぞっ!
と頑張っていこうと思います。

 

さてさて、
僕らは、だいたい的外れなモノの見方をしています。

そもそも、
「良からぬことが起こっている。」
というようなことを掴み取るのだとしたら、
そのことを、固定して掴み取らなきゃなりません。

ですが、全ては常に流動していますので、掴み取った時点で
もう、的が外れてしまっているのです。

人間万事塞翁が馬
といったお話がありますが、
今良いように見えても、それはわからないものでして、
わからないということこそが真実でもあるんです。

ありのままを観るというのは、
このわからないをわからないままにしておく。

ということでもあります。
何かを固定化するには、本来の流動している今を、
何かしらのモノサシで固定するということになります。

その流動性を固定化する一つの材料が、「因果」というモノサシです。

そして、
こんな事になったのは、あのときの判断のせいだ!
と捉えていたりするわけですが、
これはもう、脚色されたストーリーなのでありのままではなくなっているんですよねー。

わからなさへの真実。
この、わからないままでいるというのは、
どういう感覚かというと、

切実な探求の先に何かを手に入れる。
というよりは、
楽観性の中に落ち着く。

という感覚に似ています。

「知らんがな。。。」の精神ですねー。

アホ(わからない)ままでいてみること。
これこそが、的を外さずに観るコツでもあるんです。

楽観性が失われていると感じているときは、
何かしらの的外れが起こっているというサインになるかもしれませんねー。

それは、
本来、どっちでもいいことに、差をつけて受け取っている。
ということになりますからね〜。

この差が比較をうみ、この比較の差が大きいほど、
分離感は強くなります。

そして、この差が大きいほど、僕らは深刻さを持ち込み、
楽観性が失われるんです。

 

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