Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

自由について

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はい。
おはようございます。
タクさんです。

この全宇宙の本来の姿。
それは、自由だと思うんです。

どこかに決まりがあって、
その決まりに制限されているなんてことはありません。

全ては、もともと自由だというわけなんですねー。

そんな中、そんな自由さを制限できるのは、
自由の中で制限を遊ぶ時だけ、
その遊びのルール上で、不自由さが演出される時だけです。

そして、その演出をやっているのは、自分自身なんですよねー。
自分以外に、この不自由さの演出を自分に課すことはできないんです。

この演出もまた、自由であるからこそできるんですねー。

 

自由っていうのは、
そうなろうとするものでもなく、
そう振舞おうとするわけでもなく、
はたまた、
こうであれば、自由であるという条件なんてものも存在しないんです。

障害や制限がないのが自由だー。
というわけではありません。

それだと、自由に制限を設けたいのに、
それができないなんて、不自由だなぁ。。。

ってなってしまいますからねー。

だから、制限があっても、これまた自由なんです。

自由というものに決まりなんてないんですよね。
それが自由の自由たるゆえんなんです。

なので、
自由になろうとすると、それは不自由を演出しているということになってします。
それは、自由になろうとする根拠として、今は不自由なんだという理由を作り出すことになりますからねー。
自由になろうとすらしなければ、不自由な理由は採用されませんので、もう自由だというわけです。

自由じゃないという考えに巻き込まれるのだとしたら、
もうそれがすでに自由の表現なんです。

自由の中で考えを巡らせているだけであり、
ここに不自由性はありません。

考えに巻き込まれるというなかに、不自由さがあるのだとすれば、
それは、「考えに巻き込まれるのは不自由なことだ」という観念を
自由の中で採用しているだけだということなんですよねー。

水は何かの形に収まることで、その形になります。
ですが、本来の形は無形ですよね。

どんな形の器にも収めることができますが、
その形に本当の水の形というものは存在しません。

水は形がないからこそ、どんな形にもなり得るわけです。

自由さというのも、そういうものです。
自由に条件はありません。

あらゆる考えに固執していないことも自由なら、
一つの考えに固執することが許されているのもまた自由の姿なんです。

ただ、考えは、単なる水を入れている器と同じで、
どの形の器がより水の形に近いのか?なんてのはないのと同様、
どんな考えも自由に近い考えなんてありませんし、考え自体に本質性はないんです。

そして、
この考え自体に本質性がないこと。
これが、僕らを軽くしてくれるんです。

正しく、本質を表す考えがあるという錯覚が、僕らを探求に誘っていただけだったんですよねん。

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