はーい。
おはようございます。
タクさんです。
みなさん。
テンションあげあげでしょうか?
そうでもないなぁー。
という方もおられるかもしれませんが、
やっぱテンションはアゲアゲのほうが気分が良かったりしますよねー。
でもこのテンションあげあげは、実は幸せではあるかもしれませんが、
至福ではないかもしれないよ。
なーんて話を今日は書いてみたいと思います。
ま、僕らは幸せを求めてるから、色々と探求するわけですよね。
そして、どこかを探さなくても、
「今、ここに幸せがある!」
なーんていうことを、書いたり言ったりしているわけですが、
そう聞いたとしても、
「どうしてもそれを感じられない」
ってなったりしますよね。
そして、やっぱりどうしても、ここじゃないどこかを探したりしちゃうわけです。
ですが、幸せ、至福というのは、元々の状態。
つまりはデフォルトが至福ということになっていますので、
やっぱり、探したら見つからなくなっちゃうわけです。
となりますと、どうすれば良いのか?何を探したら良いのか?
ってなりますよねぇ。
それは
何を不幸だと思っているのか?
こちらを探してみたら良いんです。
思いというのは思い続けないと維持できません。
そして思い続けている間は、そのストーリーが展開されるわけです。
このストーリーは、楽しいものもあれば、そうでもないものもあり、
そしてツラく感じるようなものもあります。
ストーリーの種類はまさに千差万別です。
楽しいストーリーはもう、テンションあげあげで、ヤッタァー!って感じですし、
ツラいストーリーはどよよーん。としたりしています。
そして僕らは、幸せというのはテンションあげあげの「やった〜!」や、
じわーっとくる幸福感のことであり、
不幸というのは、どよよよ〜んだと思ったりもしているんですよね。
ですが実は至福というのは、テンションあげあげでもなければ、ジワ〜っとくるいわゆる幸福感でもありません。
確かに至福に至る過程で、そんな感覚もありますが、それはやがて静まり、
平安に落ち着きます。
この平安は、テンション上げ下げに慣れた感覚から見ると、なんとも退屈に感じるかもしれませんが、この退屈さもまた、観念が見せる錯覚でして、この退屈さの観念が抜けてくると、この平安は自由さ、全体さとして広がり、私という枠はこの全体に溶け込み、
本来の元々の至福(=何でもないもの)に落ち着きます。
これは、状態ではありません。
あらゆる状態は作られたもの。やっているもの。演じているもの。はたらき。
だということが見抜かれるんです。
でね。
結局のところ、苦と楽というのは一緒のものだったということなんですよねー。
だから僕らは、楽を求めると同時に苦を握りしめ、苦を感じることによって、楽を育てる。
なんかそんなことをやってたわけです。
元々あった至福を失ったという勘違いが、僕らを幸せへの道にいざないますが、
この幸せがいつしか、楽のことなんだと錯覚しちゃうというわけですねー。
そして、幸福感に満ちた状態を何とか維持し続けようと頑張っちゃうわけです。
ただ、この状態というのも何かをやっている状態に過ぎません。
状態は常に移り変わります。
これは、風は常に一定量が吹き続けるわけではなく、
雲は一定の形を維持し続けることはできないのと同様です。
状態は、いろんな形として起こります。
どんな状態も起こり得るわけです。
だから、苦もおこれば、楽も起こりますが、
苦を苦とすることでしか、苦は生じ得ないんです。
そして、苦が消えると楽もまた消えるんです。
コインの表と裏の関係と同じで、
苦も楽も同じ条件の表と裏でしかなかったというわけなんです。
僕らが長続きさせたいと願っていた幸福感。
これを長続きさせようと頑張り、
じわーんとした幸福感が線香花火のように消えていく様にうろたえ、
また次の線香花火に火をつけては、これが続くのにはどうしたら良いんだろう?と悩んでいたこと。
これが的を外していたというわけです。
平安は、つまらない平凡さというベールに隠され、目に止まることもなく、
一見むなしく感じさせるものだから、余計に無視されてきたわけですが、
この退屈な平凡の奥にある平安こそが至福であり、
状態とは、儚いとても小さな点でしかなかったんです。
小さな小さな点だから別に状態にそれほどこだわる必要もなかったんだー。
ってなことだったんです。
なので、どんな状態がやってきても、それは単に起こってるだけですし、
起こっては消えていくだけ〜ってなりますし、
楽しく状態を遊べば良いじゃん!ってことでもあるんです。
そして常にここに平安は見守ってくれているんです。
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