Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

欠乏感について

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はーい。
おはようございます。
タクさんです。

みなさん。
楽しい欠乏感ライフをお過ごしでしょうか?

「なんじゃ!欠乏感なんて!」
「あたしゃ、満足感の方が嬉しいよ!」

なんてねー。怒られちゃいそうですが、
ま、普通は満足感の方がいいって思いますよねー。

ですが僕らって、
実は欠乏感のこともとっても好きだったりするんですよね。

欠乏感のことが好きだから、欠乏感から逃れたいけど逃れられない。
なんてね。

そんなパラドックスもあったりするわけです。

今日はそんな欠乏感について書いてみたいと思います。

 

僕らが持っている欠乏感。
これが探求のエネルギーを生み出します。

僕らは、欠乏感を埋めたいと願い、
埋める材料を探し求めるんですよね。

いわゆる「悟り」への探求。
これもまた、欠乏感が生み出すものだったりするんですよねー。

ですがまた同時に、欠乏感のなさにも、
何か物足りなさを感じたりしちゃうのも僕らのクセなんです。

「求めるものがないというのは、堕落なのではないだろうか?」

みたいなね。
そんな思いも持ってたりしてねー。

欠乏感を埋めようとする思い。
この思いが自分自身を成長させる原動力になっている。

なーんて思ってたりするもんですから、
欠乏感がないと、成長もまた止まってしまうのではないか?

そんな思いもまた起こったりするわけです。

また、欠乏感がないとやる気も失われるのではないか?
といったような思いもあったりするかもしれません。

何もやる気が起きないっていうのと、欠乏感のなさって
別のことですので、ほんとはそんなことないんですけどねー。

でもそういう勘違いがあるのもまた事実です。

いわゆる「悟り」だとか「それ」とか「これ」。

これらは、どこかに到達するという話ではありません。

簡単にいうと、この欠乏感からの解放なんです。

欠乏感の無根拠さの見抜き。
とも言えるかもしれません。

欠乏感がなくなったからと言って、何もすることがなくなるということはありません。

ただ、何かをするために根拠に頼らなくて良いということを知るんです。

今まで僕らは、ついつい、何かをするには意味を必要としていました。
「これをやって何の意味があるの〜?」
なんてことを自分に問い続けたりしてね。

果てには、
自分は何のために生まれたのか?何のために生きているのか?
ってなったりしてね。

生きるのにさえも意味を求めたりしちゃうわけです。

生きるよりも意味の方が上位にきちゃうんですよね。

そして、意味への依存が、意味や考えの奴隷になってしまうっていうねー。

使うための道具に使われる。
なんてことになっちゃうわけです。

欠乏感がなくても、意味がなくても、僕らは好奇心でちゃんと遊べます。
意味への依存も必要ないので、のびのびと見かけの成長を楽しんでも良いし、
何かを学んでも良いんです。

そしてもちろん、何もしなくても良いんです。

欠乏感がなくても僕らはやっていけるどころか、もっとのびのびと自由に生きることができるんだ!
という発見が、欠乏感への依存を打ち消していくわけです。

そして、何にも依存しなくても良い!ということが、確信以上に明らかになっていくわけです。

この「何にも」には、「私」も「時間」も含まれますので、「私はいない」というか、
個別の行為者はいない。
ということにもなるわけなんですけどねー。

これは、「私がいる」という観念にも「私がいない」という観念にも、
依存しなくて良かったんじゃん!という発見なんです。

欠乏と満足という鎖から放たれたとき、この鎖が架空の観念であることをしり、
あらゆる概念や観念も、架空のイメージだということを知るわけです。

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