Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

特別さを求めることで無視される平凡さ

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はーい。
横断歩道の白いところだけを踏んで渡ろうとしているおっさんを見ると、
とても平和な気持ちになるタクさんです。

みなさん。
愉快な横断歩道ライフを満喫されておられるでしょうか?
おはようございます。
タクさんです。

さて、
「あなたは特別です」
なんてことを言われちゃいますと、
木にも登りたくなるくらい嬉しかったりしますよね。

僕らはどうも「特別」という言葉にとっても大きな価値を抱いているようです。

ですが、
うちの猫をみていると、どうも、特別さにはあまり興味はないようです。
それよりも、いつも通りが好きみたいですね。

群れを作る動物では、
ボスがいたりします。
ボスというのは特別さの象徴でもありますよねー。

群れでの行動では、ボスという存在が統率を取る方が何かと具合がいいんでしょうねー。

僕ら人間も複雑な社会を作り大きな群れをつくる動物といえますのでねー。
「特別さ」に大きな価値を持つのは、どうもこの辺の習性と関係があるのかもしれませんね。

そういえば、昔の中国の英雄の一人である項羽という人は、
天下を取った後、地理的にとても有利な場所に都を立てるのを拒否して、故郷に帰っちゃいました。

故郷に錦を飾らないのは、真夜中に錦を着て歩くようなものだ。
という言葉を聞いて、何かを刺激されちゃったんでしょうねー。

そのことが、のちに劉邦という人に天下を奪われるきっかけになっちゃったわけです。

 

ま、そういうわけで
この「特別さ」というのは、
どうにも人を酔わせる。
人を迷わせる。
人に錯覚を持たせるような効能があったりします。

よくある詐欺でもこの「特別さ」をうまく刺激されて騙されちゃう。
なんてことがよくありますからねー。

いきなり電話で「おめでとうございます!あなたが選ばれました!」
なんてかかってきてりしてねー。
まあ、さすがにそんな露骨な方法はもう通用しないんでしょうけどね。

そして僕らは、どうもこの「特別さ」が自分の願いを叶えてくれる。
という錯覚を持ったりもしています。

そして、自分がこう在りたい。という思いと、特別さが混同されてしまったりするんですよねー。

例えば、お金持ちになりたい!という思いがあるとします。

そのためにアレコレと頑張ったりするわけですが、
いくらお金を稼いでも、地位を確立しても、幸せになれなかったりしてねー。
本当の自分の願いは、実はお金じゃなくて「安心」だったんだー。
ってことに気づいたりしてね。

安心はお金や地位の中にあるという勘違いが、お金と地位を失う恐怖を産んだりもするわけです。

僕らの望みってねー。
癖や錯覚によってそう思い込んでいるものと、
本当にこう在りたいと思ってるものは違ったりするんですよねー。

それはもしかしたら、
恐怖から逃れたいという思いと、
自然と湧き出てくるものの違いなのかもしれません。

そして、恐怖というのは、大概がいつかどこかで掴んじゃった「思い込み」
が元になっているものだったりするんです。

ここをちゃんと見極めておかないと、
自己実現をしているつもりが、
摑まされた思い込みの観念に踊らされているだけになっちゃってるということにもなりかねません。

なのでたまには、
いま「こうしたい」という思いは、本当に「こう在りたい」という思いなのだろうか?
と確かめて見るのもいいかもしれませんね。

仮にここが無人島だとしても、それを望むのかなぁ?
と考えてみたり、
宝くじに当たったとしても、この望みは消えないのかなぁ?
ってなことで、思考実験をして見ると、意外な答えが見つかってくるかもしれません。

幸せは、特別さの中にあるのではなく、「平凡さ」の中に隠れているものです。
僕らは幸せを特別さの中に求めることで、ずっとここにある平凡さの幸せから
目を背けているのかもしれませんねー。

 

※タクさんセッション受付中ですー。どうぞよろしくです。

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