Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

いまここにある生命(イノチ)。

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ほーい。
おはようございます。
タクさんです。

みなさーん。
生きてますかー?

そりゃ、生きてますよね。

生きているから笑うんだ!
ってことですもんねー。

じゃあ、何をもって生きてると言えるのよ?
って考えるとちょっとわからなくなりませんか?

生きているから心臓が動く。
生きているから泣く。
生きているから笑うし、
生きているから悲しむ。
生きているから腹も減るし、
生きているから頭もかゆい。

そして、生きているから、生きていると感じられるわけです。

では、生きているというこのイノチって何でしょう??
どこかにそれは在るものでしょうか???

 

イノチってどこにある???
って探し始めても、
「おっ!ここにあった!」てなことにはならないですよねー。

僕らは生きているのにもかかわらず、イノチはどこを探しても見つかりません。

生きているというイノチの表現。
それが絶え間なく起っているというだけですよね。

イノチとはどこかに在るものではなく、表現なんですよねー。

そしてこの表現に分離があるはずはありません。
僕らは目の前の世界と一切分離されていない、イノチの表現そのものなんです。

その表現には、意味も意義もありません。

そんなちっぽけな器に収まるようなものじゃないんです。
だから、生きるのに、生きる意味や意義なんてありようがありません。

この今ここにある生。

この生命、イノチの躍動は常にここにあり、
宇宙の始まりがビックバンなのであれば、そのビッグバンと全く同じ無限のエネルギーが、今、ここで表現されているんです。

この表現にくらべたら、
過去のイメージも、未来のイメージも
瑣末なものです。

そんな圧倒的な今常に展開されているんです。

そしてこれは表現ですので、持っておくことも掴み取ることもできないんです。

あえてこれをつかむとしたなら、おもいっきり薄めなきゃなりません。
ありとあらゆる観念を使って、イメージ内でおもいっきり小分けにして分離して、
小さな欠片にしてやっとつかみとれるんです。

今ここに在る生は、それを何かで表現するには濃すぎるんです。

ちょーぜつに甘いカルピスのようです。
そんな一滴のカルピスをバケツいっぱいの水で薄めてやっとつかみとれる範囲の世界に加工されるんです。

「カルピス???ちょっと何いってるのかわからない。」

みたいな変な例え話になってきましたので、
この辺にしておきますが、
あなたが掴み取っている世界と、今ここに在る全ては別物じゃありません。

なので、今掴み取っているものを捨てて他のところに「それ」を求めると、
目の前にある「それ」を見逃してしまうんです。

僕らは何かを探す時、意味や条件という器に入れ込もうとしちゃう癖があります。

これこれこうだから、つまりこういうことでしょ。

といった具合にです。

そして、この意味や条件という器がまさに、今ここにある全てを覆い隠しているんです。

そして、意味や条件を過大評価して、それに依存しちゃったりするわけなんです。

で、これに何の意味があるんだろう?
人生の意味はどこにあるんだろう?
ってねー。
意味を探しちゃったり、
意味がないということに対して虚無感を感じちゃったりするわけです。

意味や条件というのは、単なるちっぽけな器に過ぎないんです。
しかも、イメージで作られた砂上の楼閣なんです。

意味のない、今ここにあるイノチ。
それは無限のダイナミックさを秘めた静寂です。

そこでは、あらゆる意味はとてもちっぽけで、意味を失っていきます。
あらゆる観念もまた、そこに溶け込む時、ダイナミックな今が確かな存在感として、
ここに残ります。

それは、あらゆる意味や観念をも含んだ全てなんです。

 

※5月26日の16時からのコースにキャンセルが出ましたので、再募集ですー。
よかったらご検討くださいまし。(※締め切りました)

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