Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

時間と空間と原因と結果

f:id:takuteto:20190424122549j:plain

僕らは、意味を探るために、原因と結果をつかったり、時間と空間をつかって理解しようとしちゃいます。

ああなったからこうなった。つまりあれはこうなっているんだ。

みたいなね。

でも、時間も空間も、更には原因と結果といったものも、実際には存在してないんですよね。
これは、無色透明であるこの今をつかむための一つのモノサシなんです。

僕らは、これらを使っていろんなものを測って掴んでいくうちに、
時間や空間、原因と結果が実際にあるものだと錯覚しちゃってるんですよね。

んー。
ちょっとややこしいんですが、何かしらの物体がここにあるとしますよねぇ。
何にしましょうか?
例えばスマホ。
これを説明するために、直径7cmの大きさのもので、板みたいな形です。
ってね。
表現するとしますよね。
これって、スマホの本質ではなく、一側面ですよねー。
7cmという大きさは一見真実に見えますが、単なる一側面でしかなく、
スマホは7cmかもしれませんが、7cmはスマホではありませんもんねぇ。
また、このcmというのは実際に存在している真実でもありませんもんねー。

同様に、今起こっていることも、時間や空間で捉えたものは、一側面であり、
実際に時間や空間や原因と結果があるわけじゃないんです。

ですが、これらがあるような錯覚に陥っちゃうという感じなんです。

若干、たとえ話がうまくいってないような気もしなくはないですが、、、、(笑)

まあそういうわけで、いつしか、その錯覚はつよくなり、
時間も空間も、そして原因と結果の法則も覆しようのない実在として掴み取っちゃうわけです。

そして、
「もう年だから、」
とか
「あの時こうしてれば、」
といったような、悩みを抱えたりもするわけですよね。

さらには、
時間が止まったら、すべての動きが止まるような気がしたり、
全ては、原因が結果を生んでいる。

というふうに考えたりもするわけなんですよねー。

 

時間が止まれば全てが止まるとかね。
「いやいやいや、、、んなわけないやーんっ!」
って話なんですけどね〜。

これは、モノサシがなくなれば、すべての長さが消えて無くなる。
みたいな論理ですからねぇ。

だって、あらゆる動き、
外を吹く風、
走っている車。
僕らの鼓動って、
時間というエネルギーを使って活動してるわけじゃないですもんねぇ。

時間がどうなろうと、何かしらの影響なんてウケないんですよ。

だって、時間というエネルギーがあるわけじゃないですからね。

時間はね。単なるモノサシなんです。

これ、空間もそうなんですけどね。

僕らは、元々あるイノチの表現を空間と時間というモノサシで測ったうえで、
掴み取ってるわけです。
そして、掴み取った時点でそれは、一側面となっているんですよねん。

掴み取るためのモノサシの1つとして、時間と空間という概念を使ってるだけなんです。

またね。
原因というのも解釈のツールみたいなもんなんです。

これは、起こったことについて解釈するために作られたものなんです。

だから、原因が結果を呼ぶのではなくて、結果に対して原因を後付けしてるようなもんなんですよね。

ですが、原因が結果を生むという錯覚をしているものだから、
未来を恐れたりもするわけです。

こんなことしてたら、あとで大変なことになるかも。。。

みたいにねー。

未来の不安と過去の後悔は同じ仕組みで起こってるんですよね。

▼僕のfacebookページはこちら。よかったら「いいね」してね!
コメントなどでつながりましょ〜!